12.06会報

小高区(おだかく)                  綿谷 弘志

小高区と云う、聞いた事も無い地名が福島県南相馬市に位置している。
この「小高区」へ6月後半「てごうし隊」の東北支援のボランティアに参加させて頂いた。
我が福山山岳会の参加者は3月の9名と違い、「O・Aさん」と私の二人だった。正確に言えば「もう1人」と云うべきか「もう一台」と云うべきか。「O・Mさん」が寄贈された乗用車もバスに並走して1300k彼方の東北支援へ向かった。1300CC・走行k7万弱、来年三月まで車検が残っている車は私も「F・M氏」も本気で欲しかったが車検証のコピーを見た東北のボランティアセンターからの即断の返事で東北支援が決定した。当初、私が運転する予定だったが私の白髪頭が気になったのか「てごうし隊」のメンバーが気の毒に思ったか?「若いメンバーが運転しますからバスに乗って下さい」と宥められた。3月に行った宮城県亘理郡山元町現場の状況は今後、何かの時に報告したい。
問題は南相馬市である。
<放射能汚染立ち入り禁止>が解除されたばかりの時期だった。南相馬市小高区は一年四ヶ月前から時間が止まったままだった。コンビニ・スーパー・商店・GS・往時のままだ。違うのは一点、人が居ない。白昼の街中で人っ子一人居ない。映画のセットでは無い。人々が営々と暮らしていた町そのものである。ガードレールに乗り上げた車、裏返しのままの車、崩れ落ちたままの家屋、悲惨な現場は枚挙に暇は無かった。更に衝撃的だったのは南相馬市へ入る迄の光景だった。田畑である。備後地方の田畑と違い東北のソレは広大で、とにかく一枚の田畑が大きいのであるが、ソノ全てが草茫々だった。一年四ヶ月も人が入れなかった。入りたくても入れなかった当然の結果である。
福山山岳会の不文律で<金銭・政治・宗教>に関知すべきで無い事を承知しているが、あえて言わせて頂ければ「原発と人間は共存出来無い」と、身を持って実感した。
今回、南相馬市で唾棄すべき事が有った。「泥棒」である。
「火事場泥棒」と云う許されざる輩が被災地で横行しているのである(報道で承知でしょう)「泥棒」と云っても<唐草模様の風呂敷を背負い、頬被りして、抜き足差し足忍び足>で銭形平次や遠山の金さんに捕まるような頓馬な泥棒なんて今時いないのである。
今時の泥棒は白昼堂々と爽やかな笑顔でボランティアの服装で事を為すのである。
取り締まる警察官も「鵜の目鷹の目」で不審者を目視して職質する。この場合、不審者か否かの判断材料の第一関門は「見た目」であろう、人相・雰囲気・風体・しかし、このような「見た目」で判断されると私の場合、最悪的に不利である。事実不利であった。救いは助手席の「O・Aさん」の存在だった。
てごうし隊の代表・馬場依奈美さんは言う。「ボランティアだから何をやっても許される。
この考えは絶対に間違っている!ボランティアだからこそどんな場合でも法を遵守すべきです」 以上

 

12.05会報

随想 O     瓦礫の山                   綿谷 弘志

「言葉が無い」とか「言葉に出せない」とか言う言葉が有るが実際に瓦礫の山の前に立った時、言葉が出なかった。これは「瓦礫の山」では無い「宝物の山」だと思った。その一つ一つのどれを見ても誰かの生活の営みであった筈である。この膨大な山は何百人、何千人の方々の日々の生活の根幹で有った筈である。悲惨な光景はこれだけでは無かった。ボランティア拠点となっていた「お寺」の墓地も津波に呑み込まれた。墓石が呑み込まれたのは理解できる。理解出来なかったのは墓石の下の遺骨も「引き波」に浚われたのである。住職さんやボランティアの方々が拾い集めた遺骨の山は何処のお墓か、誰の家の遺骨かの判別はつかない。やむなく積み上げ「塚」となった。その「塚」に黙祷して私たちの僅かに二日間ではあるがボランティア活動が始まった。
ここは「宮城県亘理郡山元町」震災報道で多くの災害地の模様が連日報道されている中で今まで余り聞いた事が無い町だが後で聞くと震災直後、上空撮影のTV画面で見た広大な畑の多くのビニールハウスが次々と無残にも津波に呑み込まれていたのが隣の亘理町と山元町だった。大規模なイチゴのハウス栽培の産地である。
近くに「自動車教習所」が有った。白線のコース脇にスクラップに変わり果てた車が積まれていた。震災当日も教習中だった。地震直後、余震を警戒したと云う。海側には高い防波堤が陸続と連なり海は穏やかだったらしい、30分後教習が再開されて間もなく津波情報が伝わり、7台の車に分乗して避難を試みるも時既に遅く、5台が呑み込まれ25名の若い命が奪われた。設けられていた祭壇に合掌したが・・涙が溢れた。すぐ近くに保育所や老人ホームが無残な姿を晒していたが、ここでも多くの方々が津波の犠牲になった。悲劇の舞台は数え切れない。私達は絶句するのみだった。
震災直後、福山市で東北支援の為にと「ある方」が立ち上がった。備後弁で「手伝いする」を「てごうする」と言うのに因み、このボランティア団体は「てごうし隊」と名付けられた。 活動理念は <備後と東北の新しい絆を作り、温かいマンパワーを東日本に届ける>「てごうし隊」のボランティア活動は多岐に亘り、やがてバスチャーターでの現地活動へとなり、過去4回に亘って実施され多くの市民が参加されていた。
私達福山山岳会の有志9名は「てごうし隊」の第5回目のバス支援に便乗させて頂き山元町へ向かった。一泊四日の強行軍だったが疲れている暇は無かった。実質の稼動日は僅かに二日間、「何か自分にも出来る筈・何でも良いから自分の手で何かのお役に立ちたい」参加者に共通の意識である。作業は予想外に?単純作業で有ったが、絶対に機械力では出来無い、人間の力でしか出来得ない事ばかりだった。塩害に遭い倒木の危機が予測される樹木を伐採し細切れにして一箇所に集める・個人の住宅(前回の活動で復元)の横の菜園(5.60坪)の整地・ビニールハウス建設・溝掃除・・等々。どの現場にも必ず、若いボランティアリーダーが居てテキパキと指示してくれた。
個人(Mさん)の菜園の作業中、昼食タイムになり各自コンビニで買った弁当を開いていた時、Mさんが差し入れに来て下さった。それは真心の篭った「おにぎり」「おかず」「お茶」だった。恐縮する我々に「どうか食べて下さい、食べて下さい」と。聞けば Mさんは現在「仮設住宅」に住まわれている。我が身さえ不自由なのに、この日は私達の為に朝早くから差し入れの準備をしてくれたのである。Mさん宅の菜園の仕上げは花の苗を植える事だったらしい(私は途中で別の現場に移動)
<花が咲いたら是非見に来て下さい・見に来ます> Mさんと約束したと聞いた。約束を破ってはいけない。約束は守らなくてはいけない。
此処にも若いボランティアリーダーが居た。長野県松本市から来た24歳、独身の彼は滞在費・活動費を自分の貯金を喰い潰していると。貯金が底を尽いたら松本に帰り働いて金を作り、再び此処へ戻りたいと云う。樹木の伐採現場で根元をチエンソーで切っていた男性は46歳、岩手県から来ていたが滞在費を少しでも浮かす為、マイカーで寝起きしていた。震災直後から来ているから一年経過したと笑っていた。伐採現場のボランティアリーダーは30代半ばだったか、彼は埼玉県から「通いボランティア」を一年やっていた。金曜日に仕事を終えマイカーで山元町へ、土日動いて日曜の夜、埼玉へ帰り月曜日から通常の仕事をしていると聞いた。
ビニールハウス建設で10人近い男女のグループと共に作業した。何のグループなのか聞いて驚いた。全員、個人で来ていた。東京、関西、中部、そして宮城県内から各自が山元町にボランティアに来てお互いに知り合ったらしい。前述のボランティアリーダーの方々、そしてこの若い彼等に頭が下った。何と云う若者達であろうか。東北の広大な被災地全域に多くの若者達が頑張っているのである。彼等(彼女等)に名聞名利は無い。世間の評判や名誉利益も考えていない。考えているのは 
<日本人として> の一言に尽きる。
今回の「てごうし隊」参加者は42名、平均年齢は約50歳だが、福山山岳会の9人を除くと、その平均年齢は37歳になり、福山山岳会9名のソレは64歳になる。若い彼らの姿勢・行動を考える時、なんとも頼もしく、嬉しく、そして眩しくて目頭が熱くなる。若い彼らと共に我々も頑張らなくては申し訳ない、間違っても彼らの足手まといになる事なく、我々年配者にしか出来無い事を模索し今後の活動を考えたい。
この「てごうし隊」を立ち上げたのは「馬場依奈美さん」34歳の女性である。彼女の考え方、行動力、実行力、優しさが多くの福山市民、若者の共感を呼び、多くの企業に支援の輪が拡がり今日の活動に繋がっていると聞いた。しかし時間の経過と共に、種々諸々の問題が見え隠れしているのも事実であるとも聞いた。次回の訪問の時期は今の時点で全く白紙である。個人的に行こうにもピンポイントで被災地支援は不可能に近い。被災地は1300k.15時間の遥か彼方である。時間が少し出来たからチョット行ってこう、と気軽に言える距離ではない。次回の「てごうし隊」の活動に参加させて頂くしかない。その時、改めて有志の仲間を募りたいと思う。
以上

11.12会報

四国八十八ヶ所歩き遍路  瀬良 悦男

87番長尾寺〜88番大窪寺  参加者14名
11月19日(土)雨
出発時から雨で、今日一日降るという天気予報であります。覚悟を決めて歩くことにする。長尾寺にお参りして,9時15分出発。「道の駅ながお」までは平坦な道です。「道の駅ながお」では、おへんろ交流サロン(弘法大師に関するものと、へんろ道に関するものの展示)で説明してもらい、見学する。少し早いけれどここで昼食にする。道の駅を11時50分出発。雨の中女体山へ登るのは危ないので中止して、旧遍路道を行くことにする。
相草東峠までは登り一方の道。峠から多和小学校までは下りで、途中から県道に出ると、ダンプカーが多く走行しているので、飛沫が掛り少々危険です。多和小学校からは車が少なくなり一安心であります。途中から勘違いして早く旧道に入り、道が行き止まりになり、土地の人に尋ねてようやく本来の遍路道に戻る。へんろ休憩所があり、以前歩いた時の道を思い出し、どこで迷ったか分かってきた。15時過ぎに大窪寺到着。着いた頃より雨は上がる。本堂・大師堂とお参りして、全員で結願の記念撮影を済ませ、16時民宿八十窪に入る。今日は我が山岳会のみの宿泊客で貸切状態です。ゆっくり風呂に入り、豪華な夕食を頂く。お接待でお茶代として三千円と、明日の昼弁当も頂く。宿泊料六千五百円で合うのかなと皆で心配する。


11月20日(日)曇りのち晴れ
夜半に大雨が降っていたけれど、朝には上がり今日は雨の心配はなさそうであります。民宿を7時30分出発。大窪寺の境内より女体山の登山道へ入る。途中展望台があり、はるか下に大窪寺が見える。奥の院を過ぎ、何回か休憩しながら女体山頂上へ8時40分到着。大窪寺が標高400m位なので一気に標高差370m余りを登ったことになる。頂上から讃岐平野・瀬戸内海が一望でき良い眺めであります。頂上を8時50分出発。下りは少し岩場があり滑りやすい所では慎重に下る。金具が付けてあり安心です。太郎兵衛館跡で休憩。譲波・来栖を通り前山ダムのほとり「道の駅ながお」に11時30分に到着。大休止昼食タイムにする。
“道の駅まつり”が行われていて多くの人出があり少し地元品を購入する。ながおを12時過ぎに出発。途中のへんろ休憩所で休憩を取り、ツーピッチで琴電長尾駅13時45分到着。駅には折返しの電車が入っていて、すぐ飛び乗りキップは車掌より購入。高松で少し時間があり土産品等買物をして高松15時10分発のマリンライナーへ乗り、瀬戸大橋・岡山を経由して福山駅へ17時15分着。全員事故もなく“歩き遍路”を堪能し、予定通り帰着しました。    
合掌

11.12会報

一人旅の愉しみ どこか遠くに行きたい。U

友人よりJR西日本1日乗り放題切符(3000円)が10月1日より利用可能であることを知りJR西日本北端の糸魚川まで輪行した。当初京都より越前、越中、越後の糸魚川より白馬山麓、松本、甲府までロングライドする予定であったが、この特典に便乗することにした。


10月1日糸魚川駅午後5時3分着。自転車を組み立て終わると当たりはもう暗くなりつつある。糸魚川でも明日2日に自転車のロードレースがあるようだ。出場者が頻りに話しかけてくる。暫し歓談した。糸魚川では旨い魚介類を食したいと期待していたが、調査不足で普通の食堂で食事する。暗い中を、1時間程走行すると廃業中のドライブインがあった。今夜はこの屋根の下でテント泊。


10月2日正午頃、今年末冬山登山例会八方尾根山麓の下見を兼ね周辺を散策した。木崎湖南湖畔のゆーぶる木崎湖で入浴し、隣接する公園でテント泊。



木崎湖公園            雲取山


10月3日糸魚川街道を南下し、正午前松本市街に入る。松本城、旧開智学校、旧松本高校校舎探訪し、本日の幕営地上諏訪・諏訪中央公園着午後4時30分。隣接するすわっこランドで入浴、食事。


10月4日、甲州街道富士見峠を越えると富士山が遠望できる。この地名は各地にある。富士山どこから眺めても懐かしく嬉しくなる。正午過ぎサントリー白州蒸留所を訪問。ハイボールの試飲を楽しみにしていたのだが、受付の女性が自転車に乗ってきたのを見ていてドライバーカードを胸に掲げるようやさしく指示され、白州ミネラルウォーターを試飲、残念。本日の宿は富士山麓鳴沢村いとこ宅である。某化粧品会社の保養所跡でテニスコートが2面とってある。落ち葉がいっぱいで掃除が大変だ。
甲府市内まで迎えにきてもらい自転車を積み込んだ。車まで走っていると色々ガイドしてくれるが地図が頭に入らない。富士五湖はあっという間に周回し、日暮れて豪勢な日本料理をご馳走してくれる。一般旅行者は判らない幹線道路より外れた場所にあり、常連客相手のよう。でかい喉黒も賞味し、頭、アラより旨いスープが出来そう。帝国ホテルで副料理長の下にいたというシェフにスープを作るよう依頼。帝国ホテル秘伝の製法らしく調理法を教えてくれない。推して知るべし。山中湖温泉紅富士の湯で入浴。この界隈は早く営業が終了する。最終受付が、午後8時半で、9時終了とのこと。30分しか入浴が出来ない。正面に夕刻紅富士がみえるそうだが、月明かりもなく何も見えない。


10月5日雨。三島由紀夫文学館、徳富蘇峰館を見学の後、石和温泉、石和健康ランドで終日過ごす。


10月6日晴れ。所用があって甲府、沼津、三島を共に周回し、私の居宅藤沢まで送り届けてもらう。日暮れて駿河湾、相模湾が共に遠望できる伊豆富士見峠は生憎霧に包まれ、微かに沼津、小田原当たりの街の灯りが遠望できる。今回はフォッサマグナ、糸魚川静岡構造線に沿って走行した。温泉を堪能した小旅行であった。明後日9日からは荒川、多摩川、信濃川源流を求めて雲取山から甲武信岳まで奥秩父山系を縦走する。
SONYのナビゲーションシステムNV-U37のテストを兼ねたツアーであったが、自転車、歩行、車共に実用に耐える結果となった。特に登山中、雲取山より先は登山道が明瞭でない箇所があり、3回大きく道迷いしたが、現在位置が判るので無事本道に復帰できた。

10月13日藤沢居宅にて

11.10会報

十津川村 

綿谷 弘志
紀伊半島を襲った台風12号に因る大被害が連日報道されている。亡くなられた方々に心からご
冥福をお祈りすると共に行方不明者の一日でも早い発見をお祈りさせて頂くしか私達には出来ない。TVの画面を見ていると半年前の東日本大地震の被害と重複する瓦礫の山と大量の土砂である。その土砂の中に家族や友人の遺体が、と思うだけで当事者でない私達も辛く悲しい思いで一杯になる。このような状況の時に、単に趣味の世界の熊野古道に想いを馳せるのは不謹慎であろうか?
マスコミは連日「那智勝浦・大塔村・十津川村・五条」を中心に人的被害、建造物、農産物被害の重大な現状を報道している。この惨状が明らかになった次の報道は、すこしずつ紀伊半島全体の事、そのなかには当然、熊野古道の事が明らかになるのでは、と思っていた矢先、今朝(9/13)の朝日新聞に「熊野古道で大崩落・復旧のめど立たず」の記事。数ある熊野古道の中でも「小辺路」と共に代表的なルートの「中辺路」の一部である。今年4月に福山山岳会の例会山行で実施したコースは「中辺路」の半分、つまり「那智」から「本宮」までのルートだった。参加者17名は大いに熊野古道を満喫した。来年は残り半分、「紀伊田辺」から「本宮」までを実施するか、「十津川村・果無峠」を越え本宮に至る<小辺路>の半分を実施するか・・どちらを選択するか贅沢な悩みを抱えていた。両方とも駄目なら伊勢路は??ここも何箇所か崩落しているとか。この後、調査が進むにつれ全貌は明らかになろうが、私たちが元気な内に熊野古道へはもう行けないのか?前述の4月の例会山行の10日後、妻と友人の大野氏(山岳会OB)ご夫妻と4人で熊野古道の一端を味わって貰う為、湯峰温泉へ一泊旅行に車で出かけた。五条から十津川村に入り本宮を目指すが途中の国道168号線では大規模な工事が延々と為されていた。バスでは出来なかったが何度も車を止めた。何度も溜息が出た。道路建設であんな大規模な工事は始めて見た。秘境の真っ只中に片道二車線の広い道が連なっている。橋脚の高さ、大きさ、その数、全てが完成すれば紀伊半島全体が大きく変わる筈であったが、今回の大災害である、TVで見る工事中の国道168号線の惨状は信じ難く、目を覆いたくなる。
明治22年8月、十津川村は未曾有の集中豪雨に襲われた。当時の人々が「山津波」と呼んだ大崩落は大崩(縦横50間・約91m)した場所が1,080箇所、それ以外の崩落箇所は7,500箇所、死者は168人を数えた。その後、村の600所帯2,600人が北海道の原野へ移住し艱難辛苦の末、生活基盤を造り現在の新十津川町(北海道樺戸郡・空知のほぼ中央、石狩川沿いに位置する)を形成した。<参照・新十津川物語>。現在の人口は約7,200人。
この時の豪雨で熊野本宮は流失し現在の場所に再建された。流失した場所が現在の「大斎原(おおゆのはら)」である。何度も訪れたが「天下一大鳥居」と称される高さ34m幅42mの鳥居の先に寂然として存在している。しかし今回この大斎原も冠水被害に遭った。
十津川村。なんと不思議な村だろうか。日本で一番広い村、日本で一番長い生活道の吊り橋は彼の地の人々の生活を今も支え、日本で一番長い路線バスが走り(高速、夜行は除く、168k6時間30分)、標高1,000mを越える山々が100座以上連なり、そして日本の歴史上、後醍醐天皇の時代から幕末維新の時代まで歴史の転換期の節目節目には必ずと云って良いほど躍り出た「十津川郷の男」。日本中の何処にもこんな不思議な村は無い。
今後、調査が進むにつれ被災箇所が明らかになっていくだろうが、見たくないし聞きたくもない。8年前に7人で、そして今年4月に17人と歩いた大雲取り小雲取りルートの越前峠、胴切り坂、小口、百間ぐら、無事でいて欲しい。牛馬童子は?そして果無峠(はてなしとうげ)は?皆、無事だろうか??心配でならない。十津川村が可哀相でならない。
十津川村の人達は北海道へ移住する時に幾つもの峠を越えたが、そのなかに「伯母子峠」がある。此処は「熊野古道・小辺路(高野山から本宮までの約70km)」のルート上だが、2,000年5月、故・田中安男さんがリーダーをされて8人が参加した。不肖、私も加えて頂いた。よくぞまあ・・十津川村の人達2,600人は、家族と家財道具、そして己が人生の全てを抱え、ここを越えたものだと驚嘆。

追記
田中さんが今の紀伊半島の惨状を知ったら・・・どれほど嘆き悲しむだろうか・・・
一年後(2,001年5月)「小辺路・後半」にも参加させて頂いた。十津川村縦断とも云える「三浦越え〜果無峠(はてなしとうげ)〜熊野本宮のルート」である。田中さんは若かりし頃、電源開発の仕事に携わり紀伊半島を駆け巡っておられたが特に「五条〜十津川」の地域に特別な愛着を持っておられ、中でも「果無峠」への想いは特別なものが有ると周囲の誰もが感じていた。しかし出発直前、体調を崩されドクターストップが掛かった。出発当日、駅で我々を見送りに来られていた田中さんを私は正視出来なかった。「行ってきます」と云うのが精一杯だった。参加者6人は果無峠から携帯で田中さんに報告したが皆、声が潤んでいた。今は鬼籍に入られた田中さんだが、その時の無念さは如何ばかりであったろうか、察するに余りある。 その時の夫の無念さを詠んだ奥さんの一句を紹介したい。

< はてなしの思いを遺す登山靴  はつえ 

11.6会報

随想 M 大雲取越え、小雲取越え     
綿谷 弘志
4月15日〜18日の「熊野古道大雲取り小雲取りルート」は笑顔と爆笑の連続で愉しく有意義な山行と相成った。参加者17名全員は我が身の健康に感謝し熊野古道を堪能した。
17名の内、最近一年以内入会された方が6名、20数年前に入会されて全くと云って良いほど山行に参加されてなかった方が1名。7名の人は私にとって新しい方々だった。しかし在籍年数長短の垣根は雲散霧消の如く吹き飛んだ。熊野古道が吹き飛ばしてくれた。全員仲間である。福山山岳会の素晴らしい仲間であった。バス帯同の三泊四日はザックも身も、心まで軽く、全国屈指の多雨地域にも関わらず天候にも恵まれた。しかも全行程は予定通りの時間で推移する事が出来た。これで盛り上がらないのが不思議である。疲れさえも心地よく笑い飛ばせた。当然の如く盛り上がった。
思えば私は熊野古道を歩くなんぞ私にすれば範疇外だったが、2000年5月大先輩の「故・田中安男さん」に初めて連れて行って頂いた。小辺路ルート前半だった。それ以降の熊野古道だが今回のコースは8年前の2003年4月に行っていた。最近退会された斎藤楠輔氏がリーダーで他に小土井薫計氏はじめ総員7名だった(現在3名は退会されている)、当然8年前を思い出す。どこを歩いていても鮮やかに8年前が蘇った。
ふと、一ヶ月前の高野山町石道との想いが重複した。3月25日〜26日、瀬良悦男氏リーダーの天保山・高野山町石道には21人が参加されたが私もサブリーダーとして参加させて頂いた。同じコースを7年前2004年4月、16名で参加していた(現在6名は退会、一名はご逝去)。最近亡くなられた「金山正さん」も参加されていた。高野山町石道も大雲取り小雲取りルートも懐かしい思いで歩いた。両方とも多くの画像を保存しているが当時の画像と見比べると懐かしさ以上に<時の流れ>を痛切に実感する。隔世の感がある。
頼山陽(江戸後期の思想家、漢詩人)の漢詩、「甲山歌」の前半部分に
黙して数うれば山陽十往返(とたびおうへん)山翠は依然として我は白髭 とある。
要は、「何度も行き来しているが、山の緑は変わらねど道行く我は年老いぬ」と訳すべきか。
今回の四日間、田中さんの遺影と共に過ごした。昨年田中さんは鬼籍に入られた。ごく最近、金山さんも鬼籍に入られた。今回の山行で三泊した中、二夜の宿での大宴会の挙句、宿のビールがすべて底を尽くという前代未聞の珍事を天国の田中さんが知ったら「オイオイやったのう」と、ひっくり返って大笑いするだろう。金山さんも「愉しかったんでしょうなあ」と腹を抱えて大笑いするかな?・・・お二人の穏やかな温容を鮮明に思い出す。
私は数年前まで「熊野古道は既に完結した」と自己満足していた。もう行く事は無いだろ、パソコンの中には過去5回の熊野古道の画像が1784枚収まっている。
時々、気が向いた時に見て思い出しては愉しんでいた。もういいだろう充分だ。充分すぎる。熊野古道は私の中で完結したと決めていた。しかし今回の山行で、その思いは違うのではないかと思い直した。考えれば私は単に紀伊半島のごく一部をチョコッと歩いただけに過ぎない。それなのに完結なんぞと考えるのは傲慢であり、不謹慎であり熊野古道を冒涜することになるのではないか。・・・
来年も行こうと思う。自分自身の目標に定めて頑張ろうと思う。
十津川村から果無峠を越えて本宮を目指すか、紀伊田辺からの中辺路を歩き牛馬童子と再会し本宮を目指すか・・・福山山岳会の素晴らしい仲間達と行こうと思う。


画像は熊野本宮大社にて

11.5会報

100名山登山達成に思う

村上 博満
福山山岳会に1997年12月入会。1998年7月、会の山行計画で黒戸尾根から甲斐駒ケ岳・仙丈岳に連れて行って頂いたのが高山登山の始まりです。出発前に横手駒ケ岳神社に参拝し、登山口から登り始めると小雨から本降りになり、カッパを着ての登山にうんざり。何でこんな苦労をするのだろうと思いながら七丈小屋に到着。翌朝は好天、太陽が静かに粛々と昇っていく、雲海に浮かぶ周囲の山々の素晴らしい風景に出合いしばらくは動けなかった。私が山に魅入られた最大の原因だったと思う。それからは先輩たちのお誘いやご指導をいただきながら夏山特にアルプスを楽しみました。当時は高き山こそ山なり・・・・との思いから高山に挑戦した。
1999年5月雪渓の槍ヶ岳、7月早月尾根から剱岳・立山と御嶽山・8月塩見岳・農鳥岳・間ノ岳・北岳の縦走に挑戦した。2000年8月には友と二人で槍ヶ岳から西穂高岳までの縦走を行ない、山岳会の先輩から批判されたこともあった。2001年7月山岳会行事として南アルプスの光岳から悪沢岳までの縦走を計画し実行。9月23日前穂高岳、24日乗鞍岳登頂で日本3000m峰登頂を達成した。
2003年6月体調を崩し救急車で病院へ搬送され45日間の入院生活。体力も落ち山への思いも薄れて山道具を処分することも考えた。体調が回復して医師から登山をしても良いとの許可が出たが、ひと夏動かさなかった高齢の体は以前の体力にはかえらない。会の山行行事に参加しても皆さんに遅れがちとなり、これからは自分の体力に合わせてのマイペース登山しかないと判断した。これまで登った山の記録を辿りながら数えてみると100名山のうち50座登っていた。どこまで登れるか分からないけど自分の生き甲斐・目標として100名山登山に挑戦してみようと決めた。
自分の体力に合わせてマイカー&マイペース登山をする方法を考えた。日本100名山・登山ガイドを参考に、インターネットで登山体験集をダウンロードし、山の状況・危険個所・コースタイムなどを調査した。自家用車にカーナビを取り付け、マップコードで登山口の位置を確認して、道路地図を見なくても運転をして行ける方法を取り入れた。
インターネットで長期天気予報を調べて出発。登山口でテント泊して、早い朝食をすませて早朝に出発する。飯豊山以外は大体日帰りが出来た。下山後は次に登る山の登山口をカーナビにインプットしてスタートする。計画しても登山口から引き返したり、雨に降られて名所観光をしたこともある。
2009年100名山達成する計画だったが、飯豊山に登っていて足に違和感を感じて途中から引き返したり、巻機山では明け方より雨が降り出し天気予報を調べると明日も雨とのことで断念。どちらも山行計画の最終日で安い高速料で帰りたいため2座が残った。2010年7月の梅雨明けを待って妹と出発。急登の直登に音を上げ妹に助けられながら一泊二日の飯豊山と巻機山に登りついに100名山登山を達成した。
山岳会で甲斐駒ケ岳に登ってから丁度11年。先輩に誘われた多くの山で指導を受け経験させていただいたこと。多くの会友に支えられながら楽しんだ山々があったから100名山に登る勇気が生まれ達成できたと思う。基本はマイカー&マイペースの単独登山であったが、単独山行を心配して東京から飛んでくる息子と合流し一諸に登ったり妹と登った山も多くある。
よく頑張れたと思う。目標を持ち、マイペース登山が出来たから達成できたのだと思う。その日の体調に合わせ絶対に無理はしない。情報はしっかり取り参考にする。車で走るときは疲れたらすぐ休憩する。道の駅やコンビニを有効に利用する。家族に心配させないように携帯電話で連絡を密にすることに心がけたから無事に達成できたのだと思う。
目標を達成して次は何を・・・・と聞かれたが・・・・?
高齢の体はボツボツ音を上げ始めている。 

金山さーん
村上  侃
大声で叫びます金山さん!
はじめてあなたに会えたのは、京都 貴船の社の前、山岳会の山行でファンの数が多すぎて
バス一台に乗りきれず、ビックリしましたその数に
旅の帰りの電車の中
ふと見つけたあなたの姿、すぐ寄り添って尋ねてみれば、高野山への下見の帰り、
ああ、そうだったの金山さん!
如月三日は節分の祭
参った尾道 西国寺、あなたに会えたよ金山さん!
脱帽して深々とこうべを下げていただいた
礼節きわめた金山さん!
Gentlemanの金山さん!
常念岳への登り道
道をあけて待っていると、大勢仲間を引き連れて、「やあ」と声をかけ通り過ぎた
小さな歩幅の金山さん!
「あの人は山登りの神様よ」
今は亡き、田中安雄さんに教えられた、あなたのこと・・・
耳を傾けようあの声に、金山さんのあの笑顔、金山さんのあの姿
みんなで学ぼう、あの為人(ひととなり)
山歩き、いっぱい いっぱい ありがとう
ありがとうございました 金山正さん!
あなたは私たちの宝物
安らかにお眠り下さい金山さん!
合掌
以上

 

11.1会報

一人旅の愉しみ

高垣 隆光



安房崎灯台 房総半島をのぞむ

どこか遠くへゆきたい。

本年9月6日神奈川県藤沢より鎌倉→逗子→葉山→三浦半島城ヶ島を経て横須賀まで輪行した。城ヶ島から遠望すると正面斜め向かいに伊豆大島、東方に房総半島、西方に相模湾を介して伊豆半島が遙かに望める。あそこへ行きたい次々に計画が脳裏に浮かぶ。JR横須賀駅で輪行袋に自転車を収納しJRで藤沢に帰る。本日走行距離70.3km
走行地図をRoot Labo で作成しました。(走行地図はスタートボタンを押すとRootをトレースします。標高も同時に表示されます。)

 翌9月7日藤沢より小田原を経由して熱海まで輪行した。20年前に購入したブリジストンの6段変速の折り畳み自転車故、重いし、坂がきつい。湯河原より熱海に至る坂道を辛うじて越して力尽きた。熱海駅前温泉で入浴。昭和30年代にタイムスリップしたようなレトロな銭湯。脱衣場に子供の頃よく見たブリキの広告看板が並べて架けてある。午後2時営業開始直後で入浴客は疎ら。入浴客としばし歓談。壁もタイルも温泉成分でくすんで見え、熱海を訪れる普通の観光客は決して訪れることはないであろうが、こういう所を好んで探訪する銭湯マニアもいる。一人旅では貴重な地元情報収集源である。
熱海駅で自転車を収納しJRで午後6時過ぎ藤沢に帰る。下田行きは他日を期すことにした。本日走行距離65.7km
走行地図をRoot Labo で作成しました。

翌9月8日鎌倉へ。藤沢より藤沢鎌倉線(国道32号線)を通行し、約30分で大仏坂切り通を越える。長谷観音前まで一挙に下り、由比ヶ浜大通りに曲がったすぐ近くにある馴染みの名物コロッケを食しに宮代商店へ。揚がるまで暫し待つことになるが、これが旨い。ビールにとても合う。湘南の神様サザン桑田佳祐も贔屓筋らしい。鎌倉文学館と些か離れているが円覚寺訪問がお決まりのコース。鎌倉は夜行高速バスに乗る時間調整のため頻繁に訪問する。本日走行距離28.5km
走行地図をRoot Labo で作成しました。
藤沢は息子の居所で、私は暫しの居候である。件(くだん)の折り畳み自転車(BRIDGESTONE号)を置いている。後継モデルはトランジット称し、26インチのみ販売しており、重量12.6Kg。私のBRIDGESTONE号は27インチで13kg強ある。輪行には重い。その日に横浜より夜行高速バスで福山に帰る。

以下本文及び続きの輪行レポートはこちらのホームページに掲載いてあります。文中アンダーラインは関係ページにリンクを張っています。   参照URL       
http://www.fsk-e.com/member_cont/10.9_12kanto_kyouto/bicycle.htm

 

10.11会報

続 “山と歴史のロマンを訪ねて“
藤井 弘一郎

9月4日から5日の“山の歴史とロマンを訪ねて平城京”についての投稿に補足します。
聖武天皇のお后の光明皇后が皇后になった730年に平城京に病人や孤児を救済する悲田院、薬草
による施薬院が置かれました。
陽寶剣・陰寶剣は光明皇后が聖武天皇の死後、大仏にささげた遺愛品600点以上の目録(国家珍宝帳)のなかでも、太刀の筆頭に登場する宝物です。東大寺の大仏の足元から100年前に見つかっていた大刀が、1,250年間も行方が分からなかった幻の大刀に間違いないとX線で撮影して先日、判明されました。なぜ大刀が大仏の足元に埋められていたのかは古代の謎です。737年に天然痘が大流行しました。聖武天皇は仏教の力で国を治めるため東大寺、全国に国分寺を建立する一大事業に着手したが完成を見ず亡くなりました。その後については、光明皇后が国分寺を全国に建立しました。だから当時は尼寺となっていました。光明皇后は藤原家の出身で、初めて皇室以外から迎えられた皇后だったとされています。悠久の時は何も答えない。時代のなぞはロマンでいっぱいだ。賢者は歴史を学ぶと言いますが、なかなか・・・・・
以上

10.10会報

登山中もヘルメットを被りましょう

                                  福原 不二雄

このところ山も様変わりしてきれいなファッションの女性が増えて目を楽しませてくれます。
ついでにかぶって楽しいヘルメットが発明されれば登山者の安全にも貢献できるのではないかと思います。
かってわたしの友人が野サルに襲われバランスを崩し登山道から30mも転落したことがありました。かぶっていたヘルメットはへこみましたが頭部に異常はなく手首の骨折だけで済みました。ヘルメットがへこむほどの強い衝撃を頭部が直接受けていれば頭蓋骨は粉々になっていたでしょう。あの時ヘルメットをかぶっていなければ命はなかったでしょう。それ以来私は落石や転倒滑落が予想されるような山に行くときはヘルメットを着用し、仲間にも勧めています。
この8月、奥穂高岳を縦走しましたがヘルメットをかぶっている人はほとんどありませんでした。この登山においていかなる危険が存在するか考えていないためです。
山岳遭難の原因は道迷いが40パーセント、滑落、落下、転倒が30パーセントといわれています。滑落で命が失われるのは頭部が損傷するからです。ヘルメットを着用し頭部が保護されていれば多くの命が救われたことでしょう。
夕刻、奥穂高岳山頂付近で体調不良で動けなくなっていた女性の下山をザイルで確保しサポートしました。穂高山荘前の絶壁にかかる鉄梯子も無事に下り、あと?しで山荘に到着というとき、同行されていたご主人がバランスを崩し3〜4mばかり転落されました。頭部出血、手足も負傷され動けないので警察の方に背負われて下山、翌日ヘリコプターで病院に移送されました。幸い短距離の転落でしたから命はありましたが長い距離ではおそらく大変なことになっていたでしょう。
ヘルメットをかぶっていれば頭部は保護され無事だったことでしょう。
下の穂高山荘前のテラスで見ていた大勢の登山者はどのように受け止められたことでしょうか。
自分はそのようなミスはしないとしか感じないのでしょうね。災難、ミスは誰にでもありうることです。中高年ともなれば平衡感覚も運動能力も退化してきます。万一の時に備え必ずヘルメットはかぶってもらいたいと痛感しました。
「あの時かぶっていればこんなことにはならなかったのに・・・」 家族の願いです。

10.8会報

瞑目

藤井弘一郎

先日、田中安雄さんの訃報を耳にしました。田中さんは自分を山岳に導いてくれた一人です。
町内の人と三人で山登りをしていた頃、その内の一人が日立造船で同期だったという縁で、田中
さんが山登りの案内をして下さる様になりました。私の恩師と高校が同級生と聞き、田中さんを
よりいっそう身近に感じるようになりました。恩師は沼隈の教育長を務められ今年春に叙勲に拝
された師です。
その後何回となく山に誘っていただき、会の例会山行でもよく話をするようになりました。
田中さんの口癖は「山に行く時はリーダー任せにしてついて歩くのでなく、自分で時間割をし、
地図を見て勉強して参加せよ」でした。
自分の身なりはあまりかまわず、反骨精神が強く、自分を貫く自分流その者の人でした。個人
的にも親しくして頂き、何回となく私の家も訪ねて下さり、長時間親しく雑談しておりました。
二年ぐらい前、いつまでも元気でいて下さいと自転車で帰られる背中を見送ったのが最後になろ
うとは・・・・と瞑目しています。
親切な田中さんは、あの世でも多くの方々の道案内をしておられることと思います。
ご冥福をお祈りします。

10.06会報

山仲間とは                           綿谷 弘志

昨秋、90周年記念事業の一環で40人が参加した韓国・雪嶽山探訪から早いもので半年が過ぎました。昨年は周知の如く福山市と韓国・浦項市の友好都市縁組み30周年でも有りました。先日、会員の金 成萬氏から連絡が入りました。浦項市広報大使に任命された参加40名始め福山山岳会の会員に食事会の招待と広島ビッグアーチでのサッカーの試合の応援依頼の要請でした。急な話であり福山山岳会全体としての対応が時間的余裕もないまま対応せざるを得なくなり、いささか焦りました。しかし、まあ、なんと言いますか・・

山仲間とは頼もしい!浦項市主催の食事会はほぼ全員が出席し、一部の常任理事さんや理事さんの協力も頂戴し会場の約半分は福山山岳会の席でしたが満席となり盛況でした。日頃、山姿しか見慣れてない会員がパリっとされた姿は一瞬?この人は?誰?の連続でした。中には雪嶽山探訪以来の再会と言うメンバーも当然居られ、手を取り合うようにして談笑される姿を見て、私は半年前の釜山港での出来事を思い出しました。

山仲間とは浪花節好きが多い!フエリー組は一日早く出発し翌日釜山観光をして、午後釜山港で高速艇組の到着を待っていた。入国ゲートが開き、高速艇の仲間を出迎えた時、期せずして双方から歓声が上がりお互いが抱き合わんばかりに再会を喜び合った。胸が熱くなった。後で聞けば、全員が似たような感情に浸ったらしい。関係の無い人が見たら「この二組のグループは何十年ぶりの邂逅だろうか」と傍目にも微笑ましく思ったであろう。感動的な光景に映ったであろう。しかし、たった昨日である。一日しか経ってない。昨日の朝、福山駅裏の広場の壮行式で会って別れただけではないか。関係の無い人が知ったら呆れ返るだろう。しかし40人全員は満面の笑みで一日ぶりの再会を喜び合い、浪花節の世界にドップリと浸っていた。

山仲間とは面白い!浦項市役所表敬訪問の時 片 章燮(ピュンジャンソップ)氏へ御礼として進呈した記念品の製作を私は M氏 に丸投げしていた。私なりの丸投げとは何を造って欲しいと具体的な注文はしないが、完成品を前にして一切文句は言わない事である。記念品の最終打ち合わせの日、当時の私は不覚にも出発一ヶ月を切った大事な時期に仕事上の怪我で入院していた。病室に彼がヨロヨロヨタヨタと入って来た。入院(転院)していた病院にはエレベーターなんぞ無い。ギックリ腰の重症の彼は病室に入った途端、立つことも座る事も出来ず「イテテ・イテテ・イテテーヨ・デーヨ(と聞こえた)」を繰り返し、床の上で苦悶の形相でノタウチ回った。介助したくても私も入院中の身なれば、ベッドの上で「浜村美智子・バナナボート」の歌詞を連想し腹を抱えて大笑いするしか無かった。他に入院患者が居ないので彼は思い切りノタウチ回れたし、私も大笑いできた。しかし彼が作成したのは縦横30×90cmの素晴らしい完成品だった。寸法の意味は言うまでも無い!福山市・浦項市友好30周年、我が福山山岳会発足90周年に因んだ力作であった。更に彼が「裏面に参加者全員に自筆で名前を書き込んでは?」と提案してくれた。

名案だ!二度と見る事は無いだろう。しかし何らかの経緯で、どのような形にせよ再会できる事が有り得るかも? 最終説明会の10月6日夜提案し、全員の自筆署名が為された。
その記念品の保管は参加者の H氏 にお願いした。 H氏 は我が子を慈しむようにして 片章燮氏に手渡すまで大切に護ってくれた。

現在、編集中の「はいまつ記念号」の表紙も M氏 に威勢よく丸投げした。
山仲間とは損得勘定をしない人も多い!仮に日常生活の繰返しの日々の中 <あのー お忙しいでしょうが、雨の日の夕方に福山を出発し、広島ビッグアーチでのナイターでのサッカーの試合でサンフレッチエ広島と浦項市チームの試合の観戦に行きませんか?そして韓国の浦項市チームの応援をしましょう。雨ですからカッパの支度が要ります。それに夜は冷えますから防寒の支度を> と近所の誰かとか仕事仲間を誘ったら、普通は行かないと思う。まず行かない。絶対に行かないであろう。「何が嬉しゅーて」と一蹴されるだろう。

しかし19人が嬉々として応援バスに乗り込んだ。他にも「行きたいが、どうしても用事が、」と言う人が何人も居た。中高年は誰しも諸々の事情が山積し、ナニヤカヤと忙しい。ところで、参加者の大多数は私を含めサッカーの生観戦も広島ビッグアーチも初めてと言う面々だったが、防寒支度に身を固め、寒さに震えながらも浦項市チーム応援席に陣取った。心情とは不思議なモノである。19人は、お揃いの赤い帽子で浦項市チームを懸命に応援した。一喜一憂した。大いに愉しみ満喫した。中には「貴重な体験させて頂いた」と感謝までされた。
山仲間とは面白い。山仲間とは素晴らしい。    
              
以上

10.04会報

講習会参加報告

平成21年度山岳レスキュー講習会に参加して
福原 不二雄

主 催  広島県山岳連盟 指導部   
参加者  47名(講師 12名、受講者35名)
日 時  平成22年2月13日〜14日    
場 所  ひろしま県民の森

県岳連講習会について

かって大山で開催された県岳連講習会において北壁バットレスを登攀し、山頂で雪洞を堀り一晩を過ごしたこともあり充実した技術研修ができました。当時の十分なサポート体制のお陰でしょう。
ここ数年は天候にも恵まれず内容もマンネリ化し、参加しても新しい技術の習得もなく参加しなくなった。 その代わり日山協の西日本冬山講習会に参加し技術取得に努めた。

今回の講習会の感想

1)講師の方もよく勉強され、熱意あふれる内容でありよかった。敬意を表します。
内容については、レスキュー全般の動きについて理解できたと思うが内容も多岐にわたり、見学が多く実習が少ないので実際に行える技術の取得にはいたらなかったと思います。
2)各人の実力にあった少人数の班編成で実技主体の講習にすべきである。
3)資料配布
受講者は受講内容をメモ等に取る事が大切ですが、屋外では困難なこともあり、教える側も口頭でなく図解や説明文等資料を配布し、それを基に説明すればよく理解でき後で学習することに役立つ。 一度作成しておけば県岳連の講習会に継続して使用できる。
4)全般的な視点が必要
梱包、ゾンデ、スコップ、搬送等個々の作業は学習したが救助作業全般的な手順は示されなかった。事故に対応した行動手順をマニュアル化し全員が同じ知識を共有することが迅速かつ正確な救助作業に不可欠である。
常に事故を想定しその対応策を考えることは大切でありどのような行動をとるべきか、どのような装備が必要で持参すべきかを考えさせる。私がいつも考えている手順は下記に記します。



なだれ等による埋没者の救出行動指針(私案)

安全確認  生存者の安全を第一に考え二重遭難のなきよう慎重な行動をとること。
あ)安全な場所に移動する

い)役割分担  指揮者、見張り者、ビーコン、ゾンデ、スコップ 人数により役割の重複もある。

う)再崩落がないか十分に確認して現場に入る。

  1. 遭難事故の通報(無線、携帯電話による)

捜索終了時に連絡したのでは救急体制が遅くなる。

  1. 捜索開始  あ)ビーコン係は直ちに埋没予想地に急行し捜索する。

い)各人避難経路を確認しておく。
う)ゾンデ、スコップ隊投入、発見、掘り出し

  1. 警察に報告  状況報告、搬送方法を打ち合わせる
  2. 作業指揮  指揮者は作業修了者が手待ちにならないよう次の作業を指示し迅速な行動をとる。  

    ・遭難者の梱包するためのプラットホームを作る

・決まった搬送方法により吊り上げ、ひきおろしのためのロープシステムを構築する。
・安全な立木がない場合は支点を設置する

  1. 搬送開始   先行者は搬送路の確保、両側部分を踏み固める。途中の中継用のロープシステムを構築する。
  2. 救急車に引き渡す。

5)ビーコン実習方法について
ビーコン操作は初めてで知識のない人に現場で宝探しのようなビーコン操作をさせてもうまく行かない。宝探しは遺体捜索のようなものでビーコンの操作法、性能を理解するには有効であるが事前に机上講習として行うべきことです。
実際の遭難現場では埋没箇所は特定できるのだから訓練でも捜索範囲を限定して発見しやすくしたほうがゾンデ、掘り出しなどの一連の作業が体験できる。
日山協の講習ではこのような場合ビーコン操作は得意なもの1名がレンジ10メートルにして途中うろうろせず埋没予想地点に急行するよう指導を受けた。
      
以上

 

10.03会報

高木氏からの礼状

私、このたび奥平時治様を通じてネパールのジェナプレイプラピィ小学校の改修工事の資金支援をお願いしましたところ、快くご支援頂きまして感謝しています。
この学校は、私がいつも世話になっているガイドの故郷の隣村の小学校で、ネパールでも僻地校です。でも、子供達は物質的には恵まれていませんが、のびのびと明るく育っています。勉強意欲も大変あるようです。
皆様のご支援のおかげで目的金額に達すると思われ4月には向こうへ行って工事を完了します。支援いただいた会員の皆様によろしくお伝え下さい。ありがとうございました。

久留米市大善寺夜明1240
高木 吉信

奥平さんの熱心な呼びかに賛同され、当会員から現金44,378円の他、子供の服、靴等多数の品が高木氏を経由して現地に寄贈されました。

投 稿

藤井 弘一郎(寅年)

歴史が、昨今クローズアップされている時代となりました。以前投稿した白洲次郎をはじめ、篤姫、天地人、今年は龍馬伝、NHKが放送するとその年のヒーロー誕生となります。龍馬伝は坂本龍馬が鞆に立ち寄ったということで、福山の知名度が全国的となりました。以前は尾道の方が良く知られており、福山は尾道の東隣ですとよく言っていました。
福山城外堀の舟入状遺構の中から、明治大正時代の頃の遊郭で働く女性の化粧品の瓶、茶碗などが発掘されました。発掘調査で出る品は当時の人がごみとして捨てていたものが大半で、言えばゴミ捨て場のような場所の調査だと思われます。1619年頃、水呑洗谷に鉱山があり宝山と呼ばれおり、それに向かう山として福山と命名したと言われていますが、福山も築城400年の歴史のある町です。
神谷和孝氏、田口義之氏の両者はよく存じ上げていますが、地元の歴史を継承するためにも、ますますのご活躍を期待したいものです。
福山山岳会も山里の歴史(ルーツ)を知って登山すると意義ある山行になるに違いありません。会員の皆様、元気で100周年を迎えるよう不老老練で頑張りましょう。

 <寅年の人>
張子の虎でなく(羽根のある虎に) 頷く
だけで主体性のない人にならず「虎に羽根」
との諺にある様に地上では何者にも負けず、
空を飛べばこの上ない様、強く生きましょう。
鬼に金棒!           
 
以上

 

                           

09.11会報

誰にでもできる自然保護
                                                         
  福原 不二雄

雨が降ると楽しみなことがあります。それは荒廃した登山道に土留めのため設置した丸太の段木や土嚢に流失した土砂がたまり、平らな階段に変身した様子を見ることです。雨水は土砂を押し流し、登山道を削るけれども土留めのために段木を設置することにより土砂の流失を防ぐことができ登山道は守られます。何十箇所設置しようが一度の雨で、いっぺんに修復してくれます。雨水は期待に応え実によい仕事をしてくれます。

自然の治癒力はたいしたものです。平らで低い段差、落葉が積もり、ふんわりとした登山道は安全で歩くのにも楽です。登山道が荒廃し歩きにくくなれば登山者は楽に歩ける周辺の植物の生育したところを歩くようになり、植物を踏みつけ、自然を傷めてしまいます。登山者には自然を守るため是非とも登山道を歩いていただきたい。登山道を守るためには多くの丸太や土嚢が必要でしょう。気の遠くなるような数量かもしれません。でもまず、一段からはじめましょう。丸太がなければ倒木でも、枯枝でも、岩石を積んでもよい。まず実行しましょう。自然は確実な成果であなたに応てくれ、あなたに続ける勇気を与えてくれることでしょう。

今年の春から府中町の水分峡から高尾山の山頂近くにある岩谷の観音さんまでの登山道の整備に努めております。全長1350m、標高差300mの登山道ですが作られて20年もたつと段木も腐食し、一部は崩れて流失しています。かつて岩谷寺には国宝の観音像があり多くの人が参拝の為登っていましたが火災のため焼失し今は麓に移築され、上る人も減り道の整備もされなくなり荒廃していました。しかし、広島市街地を一望する絶好に展望地であり、40分あまりで登れる手軽さに加え巨石の積み重なった岩峰は霊山の赴きも感じられ登ったものを爽快な気分にさせてくれます。

私は週に2から3回早朝登山し帰路に3〜4時間掛けて段木や土嚢を設置しています。今までに段木300本、土嚢も200個あまり設置し歩きやすくなったと登山者に感謝されています。その実績により最近では地元の町役場からも鉄グイや材木を提供していただいています。登山道整備は登山者のためだけではなく山を守るためであり、山から多くの恩恵を受けていることへのご恩返しのためです。これからも末永く続けてゆきたいと思います。

09.09会報

青春二人旅 
  
藤井 弘一郎

8月14日から16日にかけて二人旅に出掛けて来ました。
福山─相生─米原─大垣─豊橋─静岡─富士─身延 身延山清水坊着18:30 杉並木の中、総本山は七百年の時を感じさせる寺並みでした。8月15日は早起きして僧の朝業に出席しました。久遠寺の本堂では僧侶80人、信者500人が集い約一時間の朝業があります。朝食の後、一番のロープウェイで奥の院へ。1,153mの身延山山頂まで空中散歩しましたが、ガスで視界はまったくだめでした。北に八ヶ岳連峰、鳳凰三山、白峰三山、塩見岳、東に奥秩父山系等・・広がる展望を期待していたのですが残念。ダイヤモンド富士の見られる3月と9月にはロープウェイ
の早朝運転があります。少し山頂を散策して下山後、次の宿泊地松本を目指しました。
身延─甲府─小渕沢─小諸と来て、美人運転手に篠ノ井に行くにはどちらの車両が早いかと聞くと先の車両との返事なのでその車両に乗り2駅過ぎた頃、車掌が切符を拝見と来た。青春切符を出すと別料金980円必要と言う。しなの鉄道なので会社が別、次の駅で下車することとしたが、380円取られてしまいました。美人に弱い二人がここでドジル・・。八ヶ岳を左に浅間山を右に見て、また、真田幸村の上田城と千曲川を見ながら小諸高原鉄道で篠ノ井まで、そして松本着19:34 。 テント泊と思われる大きなザックの登山者、若者達の人の波、居酒屋も多いと感じました。 松本では、朝早起きして町並みを散策、松本城は烏城と云われ黒塗りの壁が風格を醸す。

 松本城から北アルプスの常念岳、槍ヶ岳、燕岳がすぐその先に見えました。登山した気になって駅に出ると大きなザックの若い男女の姿が
目に付きます。中央線木曽路でも中津川駅 で御岳山登山の人達をたくさん見ました。
名古屋─米原─姫路─福山 帰着は21:49 。 7年越しの約束事が実行出来た3日間、 旅と酒を嗜みながらの二人旅、少々疲れ が残ったけれど楽しい旅でした。
末筆になりましたがご一緒の旅人は 小葉竹 壽さんです。私は、旅に引かれて 善光寺でした。

以上

09.08会報

思い出話

藤井 弘一郎

平成19年8月5日 第4005 回 リーダー石岡勝吉氏の四国の路 箸蔵寺(香川県)に参加され
た方17名は記憶にあると思います。土讃線の箸蔵駅手前のスイッチバックのある坪尻駅が大変
人気になって全国から観光客が来るようになったようです。JR四国がこの人気にあやかって秋
には月見列車を出したり、栗の木を植えて栗拾いのイベントなどを色々考えているとのことです。
国道が山の上を通っているため、坪尻駅にはJRでしか行くことが出来ないため人気が出てきた
ようです。自分達が行った所が人気がでると、なんとなしに身近に感じます。私は次に行くと五
回目となりますが、また、その思いを馳せて行ってみたいと思います。

山登り くすりも友に 山岳会

以上

09.07会報

関ヶ原ウォーキング

萩原 有朋

登山の行動はいつも言っているが計画が半分です。関ヶ原に興味をひかれたのは、昨年伊勢神宮参拝のときJR車中から、関ヶ原駅ホームのウォーキング姿の人々を見てからです。マスコミの宣伝で特に女性に人気があるとのこと。関ヶ原の天下分け目の合戦の模様は本など読んで知っていたので是非行きたいと計画しました。関ヶ原役場に依頼してパンフレットを送ってもらい、図書館でも資料を調べました。

当日の天候は良好で心配した高速道路は停滞もなくスムースに流れ予定通りに到着し、まず、関ヶ原歴史民族資料館を見学して合戦模様等の予備知識を得ました。徳川家康陣跡からは石田三成の陣のあった笹尾山がよく見え、島津義弘の陣跡はこんもりした森の中にありました。不破関守跡を見て先陣をつとめた大谷吉継の陣跡の近くの小山に登ると吉継の墓がありました。 小早
川の寝返りで東軍の攻撃により自害したといわれる吉継の墓に詣でると怨念が漂うような気がしました。小西行長陣跡にある開戦地に立ち、遠い昔の武士の心情に想いをはせました。笹尾山にある石田三成の陣跡に登ると展望が開け東軍の陣地がよく見えました。決戦地を見た後、黒田長政の陣跡の丸山のろし場へ立ち寄りました。今夜の宿は木之本町の余呉湖荘です。

[関ヶ原の戦いについて]
慶長5年(1600 年)美濃国関ヶ原で行われた。徳川家康と石田三成による天下分け目の戦い。
当初は兵数及び戦略上の布陣において西軍か優勢だったのだが、小早川秀秋らの裏切りや、
毛利軍、長宗我部軍などの不参戦の軍勢が多数出たこともあり東軍の勝利となった。
翌日は大音バス停からリフトに乗り賎ヶ岳に登りました。余呉湖と琵琶湖がよく見え皆感嘆の声を出しました。登山道はまずまずであったが、雨の後で滑りやすく用心しながら歩きました。井伊直政の居城彦根城を見学して帰路につきました。

[賎ヶ岳の戦いについて]
本能寺の変で戦死した織田信長の跡目争いで、その座を巡って天正11年(1583 年)4月
羽柴秀吉と柴田勝家との戦国史上でも珍しい山岳機動戦となった。秀吉は大垣大返しで勝利
する。
この度はインフルエンザとか仕事の関係でキャンセルする人が4人いました。キャンセル料について帰りのバスの中で話し合った結果、
今回の費用は参加者で負担することに決定。次回からは6月号会報に載った費用負担を
お願いすることとしました。役員をはじめ参加者皆様の協力で、半年前からの計画が無事実行出来嬉しく思いました。

以上

09.06会報

月のリズム

藤井 弘一郎


午前の満干を潮、午後の満干を汐と書きます。人間は満潮で生まれ引き潮で死んでいくという
月のリズムで生かされています。月と人間の体は密接に関係しております。特に日本人は月のエ
ネルギーに対して深い関りがあります。波が一分間に浜に打ち寄せる回数は18回といわれてい
ます。人間でいう18回は波のリズムと波長が共鳴する一分間の呼吸のリズムです。波のリズム
と呼吸のリズムが重なり合うと36のリズムが生まれます。人間の36℃のリズムは体温です。
体温の熱のリズムが倍になると72の圧力リズムが生まれます。人間の72のリズムは心臓が波
打つリズムの脈拍です。72のリズムが倍増すると144のリズムが生まれます。144のリズ
ムは最高血圧の係数です。
太陽が歳差運動(地球の自転軸の方向が変化する運動、約26,000 年で1回転します)により
黄道に沿って0.5度移動するのに必要な年数が36年で、1.0度移動するには、72年かかり
ます。36や72という数字は古代の神話や建物などに何回も現れてきます。36と72を足す
108は煩悩の数になります。昔から病人が峠を迎える時には潮を見ていました。上げ潮の時は
まだ大丈夫、下げ潮の時はいよいよかと・・・新月の大潮の時に願い事をすると成就すると言わ
れ、満月の大潮には不幸を流すと言われています。毎日姿を変えていく月に生きている全てを目
安にしてきた人間が、進化の過程で月のリズムに合わせて来たからかも知れません。

以上

09.05会報

藤井 弘一郎

その@ 白州次郎

会報1月号に掲載させていただいた白州次郎は、NHKドラマスペシャルとして、1時間半の
番組の3回シリーズとなった。ダンディで傲慢な次郎が終戦当時の国際舞台で活躍するテレビを
見て感じたが、英語の堪能な人は当時でも日本には多くいたはずである。今も昔も人脈、人と人
とのつながりがいかに大切かを教えてくれるドラマだ。次郎の父文平が事業に失敗したことは、
次郎の人生に吉と作用したと思う。人生の転機を吉として自分を上向けるか、凶とするかはその
人その人の心のもちどころ。運もその中に大きく占めると思いますが、次郎の妻正子も大きく手
助けしてくれたはず。
いよいよドラマは佳境に入る。第三話は8月中に放送される予定。従順ならざる唯一の日本人
としていま時の人となる。

そのA 不易流行
去る3月3日福山八幡宮で325年式年大祭(25年に一度)が開催され、参列する機会を得ま
した。2時間に亘る式典が厳かに祝詞を奏していました。伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮は
2年先と思いますが、常若(つねわか) 古きを重し常に若くあるようにとの天武天皇が広めたと
されているようです。日本の八幡宮の総本宮は大分の宇佐神宮です。

そのB 備後の雄
山岳会に入会してもよいが、本格的な山に登るグループではないかと、敬遠する声を時々耳に
します。福山山岳会という名前が備後を代表する会と思っている人がいることは間違いないと思
います。備後の雄としての誇りは良いと思いますが、里山にもどんどん登っているということを
もっとアピールする必要が・・・
日本一の富士の山のように備後の雄として経験豊富な人が頂点にいて、裾野の広い立派な福山
山岳会を望んでいます。 以上

09.01会報

思いつき

藤井 弘一郎

白洲信哉のニッポンの流儀が週刊ポストに連載されておりますが、白洲家57年が過ぎ、ここに来て色々と活字になってきました。サンフランシスコ講和会議で吉田茂に白洲次郎が同行したとき、白洲が「戦争には負けたがアメリカの奴隷になったわけではない」と言ったことは有名である。次郎の妻が正子(執筆家)。その孫が信哉、祖父次郎の別荘は武相荘(ぶあいそう)といい東京の名所となっている。その信哉が冬至と南瓜のことを書いている。

昔から冬至には南瓜(かぼちゃ)と小豆(あずき)を一緒に煮る“いとこ煮”を食べる習慣があります。“冬至南瓜”ともいいますが南瓜はビタミンAが多く含まれて目にいいとのこと。

小豆はその赤色が厄除けを意味することから神社でも「なおらい」、お寺では「おとき」として食された。12月21日は冬至です。この投稿が会員さんに届く頃には冬至は終わっているが、家族そろってこの“いとこ煮”を食してみては如何でしょうか。お孫さんに日本の良い伝統・習慣を伝えるため、その時々に季節の料理を食することは大人になって良い思い出となることと思います。

土用は春夏秋冬の年四回あり、その季節の盛りを意味するようだ。 端午の菖蒲湯、土用の桃湯、冬至の柚子湯 (湯治(とうじ)と引っ掛ける)・・12月31日は一夜飾りといい正月準備はしないとされていた。等々、色々と日本にはよい習慣があります。

思いつきでとりとめのないことを書きましたがお許しを・・・以上

 

 

 

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