07.09会報     

三徳山にて          

T.Awamura

今年5月、30名くらいのツアーに参加して三徳山に登った(参拝した)時のことです。

三徳山までの距離は短いのですがその道の険しいこと。一枚岩やら余った石垣の石をダンプでばらまいた様な歩きにくい道、足元に気をとられながら進むと行く手を拒むお堂が現れ、どっちをみても険しいので仕方なく床の下を進むと柱で頭を打つやら大変でした。太いかずらの根っこは、ほとんど垂直に下がり大人の手首ほどのまるで縄梯子の様に縦横に入り組んで伸びていて、長年登る人を支えたらしく艶がでて鈍く光っていました。

今年は開山1300年と在って投入堂の修復工事も終え、その様子もテレビで報道されたせいか中高年の方はもちろん中学生位の子連れの親子が特に多く参拝していました。サンダル履きで来た人は遥拝所入り口で修業僧に注意されていました。わら草履の女性のグループやら若いカップルも何人も見かけました。山ですれ違う大半は我々と同世代の人が多く、若い人に出会うと嬉しくなります。それは私が遅くから登山を始めたので山知らずの偏見かも知れないが、今の若い人はきつい山登りよりも楽なドライブ等のレジャーに興味があると思われます。

山の楽しさをもっと知って、慣れ親しんでもらいたい。私のこれまでに若い人と多く出会った印象の山は、富士山、尾瀬、伊吹山、大山くらいです。三徳山で出会った若い人達にこれからも「どこかの山でまた会いましょう」と言いたいと思いました。

さて、もう一つの思い出は登る前に境内の宿坊で精進料理をいただきました。素晴らしい料理に皆びっくり、美味しくて大満足しました。席に着く前は「何も美味しいものが無くてまるで精進料理みたい」の代名詞くらいにしか頭にありませんでした。

食事も八分ほど終わった頃、住職さんが何処からか帰ってこられ、遠方からの来山のお礼やら

三仏寺の縁起などを話されました。食事を済ませて玄関で履物を履いているとき、正面に檜の根っ子を輪切りにした大きな衝立(ついたて)が目に留まりました。よく見ると中央部が周辺の岩山そっくりのところへ投入れ堂の精巧な模型が取り付けてあります。

写真を撮りさらにじっくり観賞しようとして前のめりの体制からあやまって、手前にあった木彫りの仏像に手が触れ廊下に倒してしまいました。私がもとのように立てようとすると、すぐに住職さんが出できて「ああいいです大丈夫です。器用な人が彫って置いてあるだけですから」とおっしゃいました。

仏像の倒れた音をどこで聞きつけたか子坊主さん(5歳か6歳の住職の孫さん?)が、その仏像を抱いて曰く「この御方はねっ、お顔は恐いようでも本当は心の大変優しい方なんですよ」と真剣な眼差しで仏像を見ながら話しました。笑われもせずおかしさをこらえて外に出た我々は一同脱帽。お寺の子はお寺の道・・か、どうかは判らないが妙に印象に残りました。

また何年か経ったとき、あの子坊主さんの成長した姿を拝見したいと思いました。

07.08会報

縦走登山(テント泊)             

    Kubo

登山の基本はテント泊山行と云われますが、重い荷物を背負い長い距離を歩くので、私は1ヵ月前からトレーニングを始めました。 4月下旬、四国の堂ヶ森から平家平までを2泊3日の日程で1日平均10時間歩きました。また、5月下旬、九州の久住山を1泊2日の日程でテント山行をしました。

1日目は白水鉱泉から黒岳に登り法華院温泉へのコースを12時間歩きました。どちらもロングコースでいくつもの急登を越えたり、廃道の笹やぶを通りぬけたり、最後にはバテぎみになりながらも頑張りぬきました。 完走した時には自然と涙があふれ出て素晴らしい感動を味わいました。テントの中ではみんなと食事をしながら雑談をします。楽しいひとときでもあり疲れがとれます。あとはぐっすり眠ります。

素晴らしい仲間と山行が出来たことは最高に幸せです。苦労した山行は特にいい思い出となり、私の人生で意義ある体験となりました。この計画をされたリーダーには本当に感謝しています。これからもテント泊の山行を続けたいと思います。

随想E 弥勒の里

H.Watatanni

去る4月15日、弥勒の里で総会での冒頭、故人となられた「槙敬二氏」と「藤田昔三氏」に対し参加者全員で黙祷がささげられました。思えば槙敬二氏とは、泊まり山行は勿論、日帰り山行で何度も一緒になりました。酒が好きな人で車中や宿では何度も酌み交わし、楽しかった思い出が一杯有ります。彼は一旦山に入ると強靭な足腰だったので、寡黙ながらも涼しい顔をして山行を愉しんでいた逞しい姿を懐かしく思い出します。

藤田昔三氏とは山行は数える程しか同行していませんでしたが、昨年、私の親友の奥さんが入院されていた同じ病院に入院されていました。日課の如く病院に通ったので、その都度病室を訪ねました。皆さんご承知の通り温厚な人柄と善意に満ち溢れた昔三さんは、何時も笑顔で迎えてくれました。「早く回復し山行したい」が口癖でした。私は時にはPCを持ち込み、色んな山行画像を二人で楽しみました。しかし何とか回復して欲しいとの願いも空しく鬼籍に入られました。

依頼した「はいまつ」の原稿は遺稿となりました。掲載される「投稿者顔写真」の収集を会員の方に呼びかけたら数十枚の昔三さんの画像が集まりました。私が保管していた画像を併せ、遺族の方と相談し一枚を掲載させて頂きます。残りの画像は全てCDに焼付け、仏前にお供えさせて頂きました。その時、遺族の方が「大好きだった福山山岳会の方たちと一緒に「はいまつ」に掲載させて頂き、又、沢山の画像を供えて頂き、本人はさぞ喜んでいると思います。福山山岳会の皆様にどうか宜しくお伝え下さい。本当に心から感謝しています。」と言われました。この場を借りて謹んでご報告いたします。

今、我が福山山岳会は「4000回達成記念事業」の真っ只中です。

もし、仮に今の時点で両氏が御存命で有るならば、「4000回達成記念事業」の一つでも良いから何とかして参加したいと「4000回達成記念事業」に恋い焦れると私は思うのです。

千載一遇>と言う言葉が有ります。<二度と還らぬ千載の一遇>

思うに、現在、福山山岳会に在籍されている方で、3000回記念に関わった方は半数以下と推測します。3000回達成は記録によれば、平成5年3月21日、金山正さんがリーダーをされた極楽寺山です。当時私は在籍していましたが、全く例会山行には参加していませんでしたが、記念の「ザック」を頂きました。今でも時々使わせて頂いています。

将来の5000回達成は単純計算すれば、少なくても10年以上も先の話です。今から10年以上の時が流れれば、その頃も現役で山行されている方は、今の半数以下に成ると思われます。

二度と還らぬ千載の一遇>「4000回達成記念事業」に全員で参加しようではありませんか! 大いに楽しもうではありませんか!!!  以上

07.07会報

 

山登りを通して                

Y.Nonaka

5月の山行で、九州の黒髪山と虚空蔵山に何の予備知識もないまま参加しました。

体力のない私には険しい山で、皆さんのお世話になりました。黒髪山ではそびえ立つ断崖絶壁の雄岩と雌岩を見ながら登りましたが、頂上間近に鎖がかかっていて、年配のWさんと私には登れません。私に付き合って下さった友達のTさんを合わせた3人を、

リーダーのHさんが先導して違う道を行くことにしました。少し岩をよじ登ったりしてもそれらしき道は見つからず、またもとの鎖場へ戻ってきました。皆は登ってしまって誰もいませんでも友達のTさんは「登ってみる」と言ってたった1人であの鎖を伝って登りました。その様子を見て彼女の無事を祈らずにはおれませんでした。しばらくして皆と一緒に降りてきたTさんを見てほっとしました。

2日目の虚空蔵山も大変険しくて、私にとってはまるでロッククライミングをしているようでした。そのようにして無我夢中で登った山頂は、大村湾が見渡せはるかかなたにハウステンボスも見えました。頂上でお弁当を食べてからいよいよ下山。とても不安でしたがベテランのKさんが用意して下さったロープを握りながら、彼のアドバイスでひと足ひと足、足場を確保しながら下山しました。下りは少し気持ちの余裕と身体が慣れたせいか回りを観察することができました。

鶯がずっと鳴いていてマムシソウが大きな葉を広げて至る所に生えていました。

黒髪山に登るとき「水を切らさないように」と言って自家製のお茶を1本下さったFさん、始終私のことを気づかって下さった友達のTさん等、皆さんのお陰で無事九州の

マッターホルンに登れたことは一生の記念になるでしょう。

ありがとうございました。

虚空蔵 山路鳴きつぐ 鶯の声

07.06会報

植物観察会に参加して

Y.Nonaka

さわやかな5月、蔵王の山に植物観察会に行きました。

リーダーの赤松さんの草花にまつわる詳しいエピソードと“コシダ”を“腰だ”とジョークを交えての観察会で楽しいひと時を過ごしました。

帰ってから草もちを包んだのが高野マキ。故郷の島の山にたくさんあって、草いきれをむんむんさせていたヤシャブシ等々・・・昔を想い出しながら観察会のノートを作りました。

群れ咲きて山にこそあれニワゼキショウ

大山遭難事故に想う

H.Watatani

去る11月25,26日の両日、万葉の山旅に参加させて頂きました。総勢41人の賑やかで楽しい山旅が何の事故もなく予定通りの行程で終えたのは、リーダーの再三に亘る下見と綿密な計画のお陰です。

高円山の山頂近く大文字焼きの広場の「火床」からは眺望も良く、若草山、生駒山が一望で、奈良盆地が雄大に拡がり思わず深呼吸しました。私にとって万葉の時代の歴史が難解の理由の一つは人の名前が覚え難いからですが、歴史とは、時間と場所と境遇の差はあれ、縁あってこの世に人間として生を受け、天より与えられた時間内の舞台で舞い踊り、寿命をまっとうした生き様の結果と思います。その深さや規模の違いこそあれ、私達、名も無き庶民の生き様も立派な歴史です。

今、福山山岳会の歴史を重ね併せると、90年近い歴史の中で延べ数千人の会員の皆さんが、何らかの因が有り、何らかの縁で入会し、何らかの果で退会する繰り返しが延々と続き、将来に亘って延々と続くと思うのです。これは立派な歴史です。

会誌「はいまつ」の歴史を考える時、私は今回「はいまつ」編集に携わっていますが、過去の「はいまつ編集に携わった方々」の労苦を身に染みて実感し襟を正す思いです。

また、福山山岳会の歴史資料に目を通していると、大先輩の金山さんや小土井さん、萩原さん達が颯爽と厳しい山行のリーダーされている姿が甦りますし、それぞれの諸先輩方が野山を闊歩されている姿も甦ります。

目頭が熱くなるような記録も有ります。あの忌まわしき大山の遭難事故の時、遭難した仲間を一日でも一時間でも早く救い出そう!一秒でも早く冷たい雪の中から見つけ出してあげよう!早く自分達の仲間を助けよう!唯々、その一心で我が身、我が生活を打ち捨て、雪の大山に何日も泊りがけで奮闘した方々の記録も残されています。

その中のごく一部を紹介させて下さい。

友人であり山仲間でもあり山の先輩でもあり、今回、万葉の山旅のサブリーダーを勤めて頂きお世話になった三好行平氏が「我が人生観が変わった」「何度読んでも涙が溢れる」と言う文章です。遭難事故から約半年後、追悼式で閉会の挨拶をされた福原不二雄、第10代(現)福山山岳会会長の言葉の一部を抜粋しました。(以下、原文のまヽ)

今度の遭難事故は誠に不幸な出来事であり痛恨の極みであります。

 福山山岳会、初代会長中木正雄氏、藤井与一右衛門氏をはじめ我福山山岳会75年の歴史に燦然と輝く諸先輩の巨星達に申し上げます。

何よりも安全登山を心掛けた我会の歴史を汚し、親に先立つ不らちな若造共を叱りたまえ、一喝されよ、されど彼等は社会においても立派な仕事で貢献し、こよなく山を愛し山に命をかけ、最後の最後まで懸命に生きた素晴しき後輩達ゆえ、何卒許したまえ。

乞い願くは天に在りても、彼等を栄光ある我山岳会諸先輩の列に加えよ。

何卒彼等を守りたまえ、導きたまえ。

本日ここに集いし会員、岳友一同、伏してお願い申し上げます。

佐伯さん、村上さん、佐藤さん、小宮さん

我々は貴方達との楽しい山行を忘れません。

山に全身全霊を打ちこんだ素晴しき仲間のことを忘れません。

貴方達の尊い犠牲をもって示された教訓を忘れません。

今後共、一層安全登山に努めることを誓います。安らかにお眠り下さい。

 以上は保存されている資料の中のごく一部ですが、このような現存している福山山岳会の貴重で膨大な資料について、早急に解決しなければならい深刻な問題が存在していることも事実です。

 以下次号

 

 

 

07.09会報
T.Awamura

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Y.Nonaka

07.06会報
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09年会報エッセイ

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09年会報エッセイ

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09年会報エッセイ

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