06.12会報

市民ウォーキングに参加して            

Y.Nonaka

山歩きはやっぱりいいですね。一昨年福山山岳会に入会したのですが体力に自信がないし、いろいろな事情が重なって昨年は例会山行に出席しませんでした。
この度、友達に誘われて福山市民ウォーキング大会に参加しました。これに参加するのにも迷っていましたが、「野中さん、もし途中で歩けなくなったら私も付き合うから」と友達が勇気づけてくれたので決断しました。
歩き出したら、履きなれない登山靴で足が痛くなってきました。でも山登りをし出したら何もかも忘れて、無我夢中で歩いていました。いろいろな辛いことなども一切忘れていたのです。
山歩きの醍醐味とはこのことかなとも思った次第です。 他にも多々あると思いますが・・・

そして、おにぎりの美味しかったこと。 質素だけれど料亭のご馳走より思い出になりました。
天気にも恵まれ、ほんとうに楽しいウォーキングでした。

皆さんありがとうございました。 

あれ寺に 拾う人なき 梨の実や   Yoko

ワンデー北方稜線

C.Harada

剣沢キャンプ場を4時10分に出発して、剣沢雪渓でアイゼンを装着。真砂沢ロッジまで1時間雪渓を下ります。二股までは下の廊下を思わせるきれいな流れの河原歩きです。
二股吊橋から三ノ窓と八ツ峰を仰ぎましたが、すばらしい風景に感動しました。

北股の雪渓からは急登ですが、平ノ池へと快いペースで登りました。平ノ池は高山植物の花盛りで心が和みます。池ノ平小屋では楽しみにしていたジュースを飲みました。(炭酸がなくて残念)

「剣岳山頂まであと5時間だね」と小屋の人が言われ昼過ぎには着けると楽しみにしていました。

池ノ平山をまいて小窓雪渓へと降り立ち、リーダーに教えてもらったスプーンカットを利用して登ること1時間余り。「北方稜線にでたよ」とお花畑で休憩のリーダーの声に励まされ、メンバーの最後でようやく到着しました。ここが憧れていた北方稜線、感無量です。

しばらく登ると急斜面の雪渓のトラバースが二ヶ所あったので、アイゼンを装着して慎重に歩きました。(後日、この雪渓でアイゼンをつけないで滑落したが、ピッケルで停止されたという話を聞きました)

チンネの側壁に沿っての池ノ谷ガリーの登りは急で滑りやすく神経を使いました。

長次郎のコルの手前では懸垂下降。予定より遅れて剣岳山頂には午後4時着となりました。

建替え中の剣山荘に着いた頃には日も暮れていました。剣沢キャンプ場には午後8時に到着。

結局、16時間の山行となりましたが、ほんとうに良く歩きました。

北方稜線・源次郎尾根・剣沢キャンプ場〜北峰〜別山とリーダーのお蔭で登ることができました。可愛いオコジョ、雷鳥の親子にも出会いました。たくさんのカライトソウが咲いていた源次郎尾根、そしてついに踏んだ剣岳山頂。そこには感激して涙ぐむ仲間の姿もありました。

この感激は一生忘れることはないでしよう。 ご一緒いただいたリーダーへの感謝の気持ちでいっぱいです。ほんとうにありがとうございました。

 

平成18年8月13日(日)晴れ

3:00 起床 4:10 出発 5:15 真砂沢ロッジ 

6:35 二股 8:05 平の池 8:25 池ノ平小屋

10:10 小窓 12:50 池ノ谷ガリー 

13:50 池ノ谷乗越 16:10 剣岳 

20:00 剣沢キャンプ場

同行のメンバー5名  

Seike、Maki、Kwawaki、Takahara、Harada

0610会報

カレンダー俳句 Y.Egusa (来年のカレンダーが出来ました)

表紙 むらさきの 峰を浮かべて 寒(かん)霞(がすみ)伊予富士

1月 遠山に スポットライトの 冬(ふゆ)陽射(びさ)し  大山遠望

2月 凍りつく あの岩の下 訪ねけり    大山屏風岩

3月 見渡せば どこまでも雪 春の嶺    槍ヶ岳より 

4月 東風(こち)吹いて 雪の化粧も 薄くなり   阿弥陀岳

5月 雪残る あの沢沿いに サンカヨウ   大山槍ヶ峰

6月 さみだれて 木肌輝く ブナ古木    比婆山

7月 未踏(みとう)の地 雪渓映す 湖沼かな     大雪山  

8月 夏(なつ)嵐(あらし) 秀峰またいで 雲の飛ぶ    木曾駒ケ岳

9月 野分(のわき)立ち 天気を分ける 岩の壁    剣岳

10月 紅葉も 登れぬ岩の 高嶺かな     烏ヶ山

11月 注意せよ 足の踏み場も 散(ちり)紅葉(もみじ)宮島

12月 霜枯れや 大気織りなす 雲の帯    寒風山   以上

Photo by Y.egusa

06.9会報

 

 

06.5

Photo by Nakagawa

趣味

s.kimura

最近、新聞を読んでいても、年金、老後、一人暮らし、老人などの言葉が目に付くと言うか気になる。昭和20年生まれ(終戦の混乱期に生まれたので、妻は不謹慎と笑う)の私も還暦を昨年迎えた。この歳になると体力の低下を感じ、同級生やその家族の訃報に接する事も多くなり、これからの事が少し気になり始めた。

そうは言っても老後の準備もしなければ、遺言に書く資産もないので、日々何となく仕事に趣味にと忙しく生きている。

 私の趣味と言えば、登山、テニス、囲碁、プールに最近はパソコンが加わり、益々充実してきた。でも、趣味は趣味であって、もしも仕事をしなくていいから、趣味だけに生きていいということになったら、今の元気な私は少し困ると思う。仕事があっての趣味で、毎日が日曜日で毎日山へ行けと言われたら、下山後の温泉もビールもまずいと思う。

現在は毎朝仕事前にパソコンに向かい、メールチェックしたり、ニュースを見たり、山行の計画表を作成したり、週に二度はテニスコートに立ち、天気の悪い日にはプールに行き、月に二度ほど近場の山、特に四国方面の山に登り、年に二回ほどは(春と秋)九州、信州、東北方面に登山と温泉と観光を兼ねて出かける。今春は、安達太良山、吾妻山、磐梯山に登って来た。

 でも、確実にいつかは引退しなくてはいけない。出来たら、山に登る気力と体力のある内に第一線を退き、海外の山、特にスイスあたりの山々にチャレンジしたいと密かに計画している。そんなこともあって早朝ウォーキングも怠けられない。テニスもプールも登山のいいトレーニングになっている。

 昨年の山の遭難者は1,684人、死者不明者は273名、その9割は中高齢者だ。

わが福山山岳会の平均年齢は60歳を超えているそうです。

中高齢者の登山は安全で無理をしない、ゆとりのある趣味の範囲で、楽しみのある登山に心がけたいものです。

 趣味が多いと友達も増え、異業者の仲間との付き合いも増え,若い頃同業の友達と毎週ゴルフをしていた頃にくらべると人間が出来てきたと家内は言ってくれる。これからも趣味で得た友達たちを大切にし、心豊かで充実したリタイア後の暮らしを夢見ている。それまで、もうひと踏ん張りするつもりだ

ZIZIBABA登山隊、友人達、従業員、家族に感謝しつつ、ウインブルドン、ワールドサッカー、エベレストを夢みつつ、趣味に生きる今日この頃です。

06.8会報

随想C 百里ヶ岳                  

 h.watatani

若狭・近江の国境近くに位置する標高931Mの百里ヶ岳。山頂に立てば百里四方が見渡せると言われた山頂から少し下った所に「根来峠(ねごりとうげ)」がある。戦国乱世の時、この峠を浅井・朝倉勢との戦いで窮地に追い込まれた織田信長軍の殿(しんがり)を勤めた徳川家康が、京への最短距離と見定め駆け抜けた峠だ。根来峠は私が今まで越えた多くの峠とは全く違う、独特な雰囲気に溢れていた。

<京は遠ても18里>鯖街道は若狭の海産物を京の都へ運んだ道の事で多くのルートが有る。福井県小浜市のいづみ町商店街と京都の出町商店街の歩道の片隅に「鯖街道・起終点」のプレートが有り、どちらからでも軽くタッチしてスタートするのが一般的らしい。「山と歴史シリーズ」で<鯖街道>の目標を立てたが、資料を見る限り全て舗装道路である、山道は無い。国土地理院の地図を見ても「根来峠」へ通じる山道は無い。インターネットで知り合った鯖街道歴史研究会会長の根本氏は有ると言う。2002年4月、斉藤氏リーダーの「熊野古道中辺路」の帰路、私は大阪駅で途中下車し「根本氏」と合った。近々、豊中郵便局関係の20数人が歩くと云う、同行させて頂く事にした。後日、京都駅で鯖街道の保存に渾身の努力をしておられる小浜山の会の「杉谷氏」サブの「畠中氏」前述の「根本氏」と合流、出町柳で豊中郵便局関係の一行と合流、花背峠から山に入り、小浜を目指した。宿は一度泊まりたかった有名な民宿「ダン林」その夜は当然、大いに盛り上がった。

翌5月。大野氏ご夫妻と妻を含め観光を兼ね4人で再度の下見に行った。途中、大野氏と二人で根来峠を目指した。時間は自由に使える。織田軍の殿は「徳川家康」。二人で歴史談義をしながら何度もシャッターを押したが後日、その中の一枚を見た大野氏に「ワタさん、下手な鉄砲が当たったぞ」と褒められた。その写真は引き伸ばし今も大切に飾っている。ちなみに私の撮影の基本姿勢は「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」方式なので何処へ行っても数多く撮る、だからデジカメは離せない。この二度目の下見の時も小浜山の会の「杉谷氏」サブの「畠中氏」のお世話になり感謝しています。

2002年11月、「山と歴史のロマンをたずねてパート2・鯖街道」を実行、参加者は大野氏と今田悦子さん、藤井満子さん(その後退会)の4名だった。小浜駅に降り立つと正面のアーケードに大きな横断幕があった。「おかえりなさい!地村保志さん浜本冨貴恵さん」北朝鮮に拉致されていた被害者の一部が帰国され、日本中が大騒ぎの真っ最中だった。殺到する報道陣で宿もタクシーの確保も困難の情報を事前に得ていたのでタクシーを予約していた。急遽予定を変更し拉致現場へ向かった。それは小浜市青井の小高い山の上だった

TVで何度も見た小浜公園の円形の展望台に立つと、眼下に日本海が広がっている。こんな所でイキナリ袋に詰められ、工作船に積み込まれたと思うと寒気がした。美しい筈の日本海は天候が悪かった為とはいえ、ドス黒く、形容し難い凄愴感に圧倒され、拉致の事実を、我が身や知己の人間に置き換えた時、言葉が出なかった。福井県の小浜と云う一地方都市の小さな公園の小さな展望台は、今後の我が国の歴史を語る時、又、世界の歴史を語る時、大きな大きな歴史の証言台になる。

さて、<奈良のお水とり>と云う有名な行事がある。

「奈良のお水とりがすまにゃーぬくーならん」子供の頃、祖父母から言い聞かされていた私は、奈良の何処かに冷たい水の塊があって、それを誰かが取るから日本に春が来て、暖かくなると信じ切っていた。奈良東大寺二月堂の「お水取り」の儀式は日本の重要な年中行事の一つであり、1250年以上も昔から連綿と伝わっていて誰でも知っている。

意外に知られていないのが「取られる水」の事である。東大寺二月堂の若狭井に湧き出す「御香水」は「お水取り」の10日前に小浜から発送される。しかし小浜の人達は輸送手段にトラック便や鉄道便なんかは使わない。遠い遠い昔から秘密の地下水路を使っている。

鯖街道の起点から若狭川に沿って上流へ向かい根来峠を目指す途中に「神宮寺」と言う有名な神仏合祀の寺があり、本堂脇から「御神水」が沸き出でている。「お水とり」の10日前の夜、神事が終わると2K上流の「鵜の瀬」と呼ばれる河原へ運ばれる。その夜、白装束に身を固め整然と進む善男善女が、夜の鵜の瀬に向かう松明行列は、さながら一本の幻想的な光の道になると表現されている。お水送り」の儀式の後、若狭川へ流される。

私達が「鵜の瀬」に行ったのは「お水取り」に無関係の日で、しかも昼間であった。駐車場や展示館の整備された観光地で、美しい場所だ。「お水送り」の舞台がある。下流へ向かって数キロ先は日本海、川の流れは日本海に注いでいる。奈良は真反対の方角だ、東大寺二月堂の若狭井までの道のりは長い。根来峠を越え滋賀県・小入谷に入り、朽木村を経て京都北山の深い山々を越え、花背峠を下り鞍馬から更に、京都市内を越えた遥か彼方である。この間、幾多の分水嶺を乗り越える。しかし秘密の地下水路は、距離とか地形の起伏とか、天候には全く左右されない。

10日後には確実に東大寺の二月堂に到着する。「鵜の瀬」の管理人さんが「お水送り」の拡大パネル写真を指差し「ここの、えーっと。これこれ、この白装束白頭巾が私です」と嬉しそうに説明してくれた。更に小声で、某大学の学生が数年前「お水送りの舞台の真下」に潜り、秘密の地下水路を発見したと云う。その水路は真っ直ぐに根来峠へ向かっていると云う。私は「ほほう!へえええ!!そうでしたか!そりゃあー凄い事じゃないですか!」と素直に納得した。

この場合「証拠は?」とか「ほいじゃが、どうじゃこうじゃ」とか云う質問は似合わない。野暮な話は単なる屁理屈になる。「それを言っちゃあおしめえよ」の世界になる。誰が何と云おうと「鵜の瀬」で放たれた「御香水」は白装束の小浜の人達の純真な祈りに見守られながら秘密の地下水路を流れ、東大寺二月堂に沸き出でるのである。1200年以上の昔から毎年一回、若狭川の川底深くに誰も見た事がない神秘の水脈が忽然と現れ、時に流麗にしなやかにイナバウアの如く。時に雄雄しく逞しく、逆流を乗り超え繰り返し、粛々と正確に奈良の都の「お水取り」の絢爛たる舞台を目指し確実に到着する。だから日本に春が来るのである。「日本の春」は、鯖街道の起点に端を発する。

<京は遠ても18里> 遥かなり鯖街道。山と歴史のロマンに満ち溢れていた。   

以下次号

06.7会報 

地図に想う

 K.Ohono

(一)

地図は『読む』と表現するのが正しいそうです。絵画は鑑賞ですから『見る(観る)』、表現が異なります。地図を『読む』と『見る』との言い方では確かに語感に差を感じます。

しかし日常の会話で地図を『見る』と言っても、間違いとはならないでしょう。  

大江戸絵図、江戸切絵図と呼ばれる絵図があります。『読む』『見る』の言い方からすれば絵図ですから『見る』とのことになるでしょう。しかし、地図との単語が江戸時代に使われていたのかどうか知りません。 

伊能忠敬の図は伊能大図とか小図と言われていますから、江戸絵図は現代の地図を意味する言葉と思います。従って『読む』との語感も江戸絵図から受け取れます。同時に彩色もきれいなので絵図として『見る』こともできます。地形図と異なり縮尺も方位も正確でなく、まして等高線などありませんが、都内、特に下町を散策する時、持ち歩きたい地図はやはり江戸切絵図です。池波正太郎フアンの方なら江戸絵図を見る楽しさ、美しさを理解して頂けるでしょう。

「鬼平犯科帳」「剣客商売」の登場人物が立ち回った場所を想う時、地形図では面白くなく興醒めです。この感覚が絵図を『読む』とでも言いましょうか。  

地図を見る楽しさは、時刻表のそれに例えられるそうです。時刻表も数値の羅列であり、路線図も江戸絵図と同様に正確な方位、距離を表すものではありませんが、目的地までの路線を探す目的なら地形図より分かり易い地図です。 地図だから時刻表の数値も路線図も読めるのです。

(二)

地図を読むとはどのようなことでしょうか。

時刻表は興味の無い方には地形図の等高線同様、無味な数値の表ですが、この表から名作「点と線」が生まれた事は周知の通りです。 作者松本清張さんの登山経験の有無は知りませんが、豊富な方では無いと思います。しかし鹿島槍を舞台にした「遭難」は地形図が読めなければ書けないと思います。地形図から人間の葛藤を描く小説を書くのですから、漠然と見ているだけでは出来ないと思います。同様に江戸絵図から池波正太郎さんは長谷川平蔵、秋山小兵衛を生んだのですから、やはりきれいな絵図として眺めておるだけでなく、読みこなしておられたのでしょう。この様に、読むとは地形図、絵図、時刻表を見て、この中からイメージを描き出す事と思います。これが漠然と『見る』と『読む』との異なりでしょう。

(三)

 私は地図を読む、つまりイメージを描く能力に劣るので、逆な楽しみ方をしています。 

鬼平、小兵衛が今日読んだ一編で何処を歩いたのか、江戸絵図又は切絵図上にプロットするのです。プロット点を今の市街地図に移せば、同じ道順を散歩できます。

鹿島槍も私の体力技術はさて置いて、行ってみたいとの思いはあります。 

遭難と見せ掛け部下を殺した尾根、真相解明に現地を訪れた者も罠にかかり滑落死する沢、何れも地形図で場所は分ると思います。しかし私の地形図を読む能力ではイメージとして全体像が俯瞰できません。 

山岳会の山行に参加させて頂く場合も事前に地形図を見てコースのイメージ、鳥瞰図を頭の中で描きますが、実際の現地と一致しないことが多々あります。それで帰宅したら直ちに、つまり見た景観を忘れない内に再度地形図を見るのです。道を間違えた時は、帰宅してから地形図を見るのが面白く、この繰り返しを数年していたら僅かながら『読める』ようになったとの感もあります。                          

(四)

  昨今はパソコンソフトで簡単に地形図が入手でき、区間距離、高低差、歩行時間、方位等々の数値も瞬時に測定出来ます。山のイメージも鳥瞰図が写真に近い画像で入手できますから、山行前にルートと地形の概念も把握できます。便利です、使い方によりますが役立ちます。

この利用に賛否両論を耳にしますが、全て否定することは無益です。携帯用のGPSも安全な山行に役立つでしょう。しかし、それで地形図を読む必要が無くなるとは思いません。

携帯用のGPSも深い沢では精度がどの程度なものか使用した事が無いので分かりません。

私の携帯電話のGPSでは山中は圏外が多く使えません。仮に位置が分かっても、地図が読めなければ進むルートが正しく判断できるか否か疑問です。私見ですが、これらのソフトの利用は地形図が初歩程度は読める様になってから使用すればより面白いように思います。等高線も読めずに、ルートだけパソコンで描いても面白くないと思います。個人の主観と用途の問題ですから、正否の論ではありませんが。

(五)

地形図を読むことは安全登山につながることは論をまちません。しかしそれが全ての目的ではないと思います。私が参加させて頂く程度の山行なら、深山でオリエンテーリングをするのではありませんから、『見る』より少し程度がましな『読む』ことが出来れば充分で、コンパスもシルバタイプで事足ります。地形図を文章の行間が読めるような眼力をお持ちの方なら、田舎の郵便局、学校、神社、お寺、小川の記号、等高線等からその村の情景が原田泰司画伯の世界として目に浮ぶでしょう。(村は現在殆んど存在しませんがイメージとしての村です) 

地図を読む楽しさは地形図、切絵図に限りません。旅行雑誌のグルメ、ファッション、風俗店などの案内図から、その街のイメージが目に浮びます。

市街地図も古いものを捨てるのでなく、新しいものと比較して見れば、そこから街の変遷が読み取れます。特に市街地部は地形図の推移から変遷が読み取れ、面白く思います。

山岳会の先輩で懇意にさせて頂いておる某氏は、絶えず地形図とコンパス持参で山行されます。その方が里山などで地形図を見ておると、こんな場所なら地図は要らないとの声も聞こえます。しかし、その方は必要性の有無で持ち歩いておるのでなく、楽しんでおられるのです。 

又、別な先輩は『山行中地図を読むとは、これから先の地形を予測する事、もし異なっておれば道を間違えたと疑い再度確認する、正解なら合格。これが地図を読むとの快感、醍醐味』と言われています。

山行に直接役立つか否か別として、地図に興味のある方は地形図とコンパスを持参して参加されたら楽しみが増すのではと思います。                      

 完 

06.6会報

NHKハイビジョン番組

「国立公園 2泊3日トレッキングの旅 瀬戸内海国立公園」に出演して

f.fukuhara

この番組は国立公園の美しさを伝える番組として2年前に九重・大雪山など4箇所の国立公園が紹介された

が好評につき、今回続編として新たに4箇所追加制作されたものです。

3月24日、県岳連より協力要請があり、美しい瀬戸内海の多島美とふるさとの山々を全国の皆様に紹介でき

るのならと実力も顧みずお引き受けした次第です。

先方の希望は、「自然派の視聴者を対象にした番組なので、観光地や通常の観光道路は通行しないで、地元

の人ならではの自然の残る道を歩き紹介してほしい。撮影は5月の連休前に完了したい。」

今回のルートは1日目、向島から始まり高見山・因島公園まで、2日目、白滝山から生口島・サンセットビーチ

まで、3日目、多々羅大橋を渡り立石展望台・入日の滝・安神山・鷲ヶ頭山まで、3日間で約70キロを歩く行

程です。

ルートについては地元に精通した会員のkubo兄弟、h.senoo氏、s.ochi氏と歩き、地図作成はk.oono

氏に何度も手直しをしてもらい約20時間あまりをかけて完成しました。

本当にありがとうございました。

4月1日から2日の下見調査。ディレクターの中村さんはうら若い女性、重い資料の入った荷物を背負い歩か

れました。特に2日目は土砂降りの雷雨という悪天候にも拘らずやりぬきました。大した根性です。男女同等、

実力本位のきびしい業界を知り、必ず彼女の労に報いるとの気持ちを強くしました。4月24日の撮影開始まで

8回現地に入り入念に調査をしました。

彼女も私の指示した靴、ザック、雨具、衣類も揃えて万全の体制とのこと。

いよいよ撮影開始。最初は向島の兼吉の丘からです。NHKの番組には台本があります。

全てはそれによりなされます。口下手、早口の私です。おまけに目の前にはカメラのレンズ、なかなか悪戦苦

闘。この時季、今年一番の黄砂に見舞われました。絶景の高見山は真っ白で何も見えません。夕日、夜景を

撮影する予定の因島公園も同様で全くダメ。

雨の予報もだされていました。でも天は我々を見捨てませんでした。

天気も持ちなおし、黄砂も収まり素晴らしい瀬戸内海の多島美をとることが出来ました。

彼女も私の話し下手を理解してくれ「台本は見なくて良い、自分の感じたことをそのまま表現してくれれば良

い」といってくれたお陰でずいぶん気が楽になりました。

撮影中にはいろいろなことがありました。

白滝山の360度の展望の素晴らしさ、多々羅大橋の機能美はまことに世界一の美しさでした。

更に歩きの旅だから体験できる出来事、出会いもありました。

険しい峠道が昔は通勤路であったこと。山道の忘れられたようなトンネル。多々羅大橋の鳴き龍。特に瀬戸田

のミカン畑の農夫とは忘れえぬ出会いとなりました。この人には感激しました。彼女とも激論を交わしました。

「ミカンの樹木に黄色い実が無いので良い映像にならない。実も散らばっていないので何の木か分からない」

「この時季、ミカンが残っているのは人手が足りないためだ。このように愛情を持ち育てている畑に実が無く、

散乱していないのは当然である。盆栽のように枝振りを整え、満遍なく太陽が当たるように針金で引っ張り、

切口は銀紙で養生する。さらに3重の袋がけ、これほどの愛情を注いだミカンがほかにあるか。こうして作られ

たミカンが美味しくないわけが無い」興奮しました。

おじさんがくれたミカンは其の名も「かがやき」、あまくて、水分たっぷり、おもわず「うめいー」と叫びました。

スタッフも同様の感想でした。

サンセット・ビーチの落日のこと。

先にビーチに入った彼女が海岸のあまりの汚さに驚き、私が見たら幻滅して感想も何もないと考え、手前で私

を待機させスタッフ全員がごみ拾いをし、きれいにしてから私が登場しました。

やっとたどり着いた感激、みんなの心遣いとまさに沈まんとする夕日を見たとき、私が永年恋焦がれ何百回と

暗唱し夢にまで見た、45年前、高校教科書に載っていた徳富蘆花の名詩「相模灘の落日」の風景そのものが

展開されていた。

何たる天の配剤か、この幸運を感謝するとともに、熱い思いがこみ上げ思わず其の詩の一節を口ずさんだ。

「斯(か)かる凪(なぎ)の夕に、落日を見るの身は、恰(あたか)も大聖の臨終に侍するの感あり。荘厳の極、平和の至

凡夫も霊光に包まれて、肉解け、霊独り端然として、永遠(いたるにてー)の濱(ひん)に たたずむを覚(おぼ

)ふ物あり。

悠然として心に浸む。喜(よろこび)と云はは過ぎ、哀(かなしみ)と云はむは未だ及ばず」

最後の締めは鷲ヶ頭山。

中村さんはこの作品に明確な意図とビジョンをもち、カメラアングルを指示、映像をモニターテレビで確認、必

要な映像はしつこく要求していました。

だから、私も岩峰を登ったり下りたり素晴らしい映像を得るためよく動きました。

中村さんにはいつも「徹底してとことんやろう、いかなる無理難題も必ずやりぬく」と言っていました。私も後悔

しないよう全力を出し切りました。

幸い天気もよく素晴らしい多島美で最後の映像を締めくくることが出来ました。

私もよくしゃべりました。山火事のこと。登山道がコンクリートの理由、山の呼吸法、最後は里山の魅力につい

て。

4月24日から29日まで6日間、600時間あまり撮影して実際に映像に載るのは22分。

どのようなものになるのか見当もつきません。しかし、美しい

風景が私の口下手を補ってくれることでしょう。分れ際に彼女

が言った。「あなたがいなければこのような作品は出来なかった」

放送予定は5月末か6月初めNHKハイビジョンで放映予定。

          以上

06.5会報

随想B 熊山                             

h.watatani

福山山岳会で「熊山」と言えば真っ先に門田さんを思う。先輩の門田さんは熊山をこよ

なく愛しておられる。私も「山と歴史シリーズ3」で熊山を選んだ。岡山県南部、兵庫

県境の近くに位置する508mの熊山は幾多の貴重な歴史が山積されている。興味を

持ったのは約700年前の南北朝時代、足利尊氏との争いに敗れた児島高徳が挙兵し

た時の腰掛岩、旗立岩が現存している事だった。単に地方の一武将の児島高徳が

挙兵した場所と言うだけなら遺跡としては残っていないと思われる。しかし彼の「ある

行動」は、後世に名を留める稀有な事でもあると思った。門田さんに種々のアドバイス

を受け下見には大野氏が同行してくれた。

児島高徳の事を知ったのは30年近く前、斉藤監物(作)の詩だった。熊山挙兵する3年

前、元弘の乱で敗れた後醍醐天皇が鎌倉幕府によって隠岐へ流罪となった時、彼は

天皇を奪還しようと一行のあとつけたが機会なく、美作で厳しい警護の隙をついて天皇

の寝所の庭に忍び込み、桜の幹を削って中国の故事に因んだ十文字の詩を刻み込み

天皇を励ました。朝、首を傾げる警護兵の傍で詩の意味を理解した天皇は微笑んだと

言い伝えられている。この時の情景を昭和初期の詩人、小林弘氏(大正4年生滋賀・

彦根)は「院庄」と題する詩の結句の部分で<桜樹微意を奏すれば笑み給う、此処

はいずこぞ美作院庄>と偲んでいる。

十文字の詩を平仮名で読むと<天、勾践(こうせん)を空(むな)しうすること莫(なか)

時に范蠡(はんれい)、無きにしも非(あら)>と訳す。詩の大意は「決して諦めず、

再起できる日をお待ち下さい」と言う事だが果たせるかな一年後、後醍醐天皇は隠岐

を脱出、歴史は南北朝へ流れる。「桜の幹を削ってメッセージを刻み込む」この行為

は現在では自然破壊云々等批判的な声が多いだろう。しかし私は、いかにも日本的な

情緒と風情に溢れていると感じた。それにしても他に方法は無かったのか。彼は己の

生死を賭して僅かな時間内に必死で模索したであろう。手段を選ばず後醍醐天皇に

何としても伝えたかったか、迷いに迷った挙句だったか、俗に言う「火事場の馬鹿力」

だったか、半分ヤケクソだったか、彼は一体どんな男だったのか。この意表を衝いた

発想を短時間で実施した彼の姿を想像する時、彼の人となりに惹かれた。どうしても

現場を見たくなった。20数年前、当時の詩吟仲間に声をかけ献吟に行った。中国

自動車道院庄インターの目の前にある「作楽(さくら)神社」がその舞台である。地の

利がいいのでその後、何度も訪れた。賑やかな観光地とは全く異質な空間だ。往時を

忍ばせる桜の木は現存してないが、後醍醐天皇と児島高徳を祀った神社の境内には

終日「忠義桜」の歌が流れている。児島高徳の忠義は大正時代に尋常小学唱歌とし

て歌われていた事も、又、「君が代」の正しい歌い方も私なりに初めて知った。

熊山と児島高徳に関して残念な事や気掛かりな事もある。作楽神社の地理的位置が

低くても一応、山と名の付く所なら「山と歴史シリーズ」で実行したいが、田園地帯の

ど真ん中に位置しているから山行としては出来ない。又2002年12月「山と歴史シ

リーズ3」の熊山山行で、私はリーダーとして旗立岩の前に立ち、児島高徳の伝記を

講釈する予定だった。

しかし直前、私の体に突然異変が起きた。脳に鈍い衝撃音を感じた。一瞬何が起きた

か解からなかった。ブリッジで繋いでいる三本の差し歯が前触れなくイキナリ抜け落

ちたのである。こんな荒唐無稽な事は聞いた事も見た事も無い。参加者全員が仰け

反って大笑いした。木にさばり付いて笑う人。御丁寧に尻餅をついて、のたうち回って

笑う人・・関係のない第三者が見たら、なんとマア、さぞかし仲の良い微笑ましい一行

と映ったであろうが

冗談ジャない。口元に手を当て、差し歯は意外に重たいモンだと感心している場合で

はなかった。ましてや児島高徳の講釈どころの話でもなかった。旗立岩を横に見て、

口数の少ない極度に物静かなリーダーに変身せざるを得なかった。それ以来、会報

で<○月○日・熊山・L・門田敏昭>この活字を見る度に、抜けた差し歯を思い出す。

さて、疑問に思っていたのは彼の行為が何故、警備兵に悟られなかったか。3月

21日、萩原さんリーダーの「登山道整備」に参加した時フト思い出した。新調した

「鉈(なた)」の切れ味も試したかった。「やぶこぎ」の途中、頃合を見て臼木山山頂へ

一人先に行き、手ごろな倒木を探し、幹まで削り字を刻もうとした。しかし鉈で削る音

がする。幹に詩を刻むにはノミがいる。それでは確実に警備兵に悟られる。試しに

鉈を両手で支え、外皮を優しく削ると幹との間の薄皮が綺麗に現れた。爪で字を書

いても判読できる。音は僅かだ。この程度の音は夜陰に紛れる。「そうか、彼は薄皮

に詩を刻んだか」倒木に馬乗りになって腕組みをして考えている時、エンジン音が

近付いて来た。「ワタさん、ここにおったんな。暑いなあ、チョッと休憩しようか」。

草刈機を背負い、汗にまみれた江種さんの優しい笑顔があった。    

以下次号

06.4会報

随想A 五剣山           

  h.watatani

先日(3/5)例会山行の五剣山に参加した。いい所へ連れて行って頂いた。小豆島


出身の私は中学時代の三年間、木造校舎の二階の窓から五剣山を見て過した。

複数の小学校が土庄町の中学校へ編入される関係で家からは遠く、行動半径の

狭かった当時は五剣山の存在を知らなかった。

初めて見る屋島の横の変な山は、牛の頭を横から見るような感じで、子供だった 私の眼には何とも奇妙に見えた。何故、あの山が「五剣山」と呼ばれるのかも

不思議だった。どう見ても「五本の剣」でなく「牛の頭」だと思った。授業中、ボサー

として、ろくに勉強もせず眺めて過した三年間が懐かしい。

卒業後、島を離れる事になり集団就職船に乗って大阪へ向かった。就職組全員

は島から離れるのは修学旅行以来で無邪気に騒ぎながらも、大阪へ着いたら離れ

離れになる心細さ寂しさ、見ず知らずの所で住み込みする事の不安・・ 女子達

は出航前から泣いていた。次第に皆涙ぐむ。私も不安で一杯だった。「クリーニング

屋へ行ってナンするんじゃろか」「ほんまに月給が3000円も貰えるんじゃろか」。

甲板でデッキに寄りかかり、屋島と牛の頭をボサーと眺め続けていた遠い日が懐

かしい。

サテ、八栗寺から見上げた「五剣山」は・・・なるほど「五本の剣」であった。あの懐

かしい牛の頭は何処へ隠れたか!しかしこれは確かに五本の剣だ、牛の頭ではない。

考えてみれば何事も正面から見ての話であって、見る角度が違えば物事すべて違

って見えるのは当然の話。

「そうかそうか!こう言う事だったか!」この単純な疑問が遅ればせながら四十七年

も経って納得できた事が可笑しくて、自分に呆れながら独り苦笑した。

山行途中、Tさんが桜の枝を指しながら、「蕾が膨らんでいる、開花は近い」と微笑

んだ。

百花繚乱の美しい春は胎動していた。「日本の春は梅と桜」が似合う。梅は厳しい冬

を耐えた草木の中で一番に花開くと古来より云われている。<争わずまた、力(つと)

めず、自から百花の魁(さきがけ)を占む>と詠まれたり、桜は「桜花爛漫の好時節」

と全ての日本人に愛されている。江戸時代の端唄にも<梅は咲いたか桜はまだかい

な>とのくだりがある。上記の「春は梅と桜」に関する事と少し視点が違うが、仏教に

関する教えの中に「桜梅桃李」云々がある。各々が特性を発揮する事が美しいので

あって、梅も桜もお互いに真似は出来ないし、真似する必要も無い。大切なのは今

現在の無垢の自然体だ。無心の草木すらかくの如し、況(いわん)や人倫に於いて

おや、人も又かくの如くあれ!お互いに一人一人を尊重する事が一番大切だと云う

教えだろうか。第一回市民ウォーキング大会で植樹した桜が早く咲いてくれれば

いい。山岳会の仲間が皆揃って賑やかな楽しい花見が早く出来ればいい。

五剣山から下山し解散宣言後、7人のメンバーと屋島山麓の「うどん屋」へ

行った。この店は五年前(2001.03)、萩原氏のリーダーで白峰山からの帰路、

同行者の多くを案内した事がある。

その時、迎えてくれた女性はその昔、同じ集団就職船に乗って泣いていた高松市

在住の同級生だった。今回も5年前を回顧しつつ、楽しい、そして美味しいひととき

を味わった。 

五剣山。いい所へ連れて行って頂いた。リーダーに感謝!有難うございました。 

以下次号  

063会報

随想@ 富士山

h.watatani

富士山は日本で一番高い山である。

中国人民の精神的支柱が万里の長城であるのと同じように、日本人の精神的支柱は

富士山と言っても過言では無いと思う。当然の如く古来から富士山に纏わる話、事柄

は枚挙に暇がない。

その一つに「一富士、二鷹、三なすび」と言う言葉がある。この意味に関しては実に

様々な諸説が入り乱れ、中でも「初夢」が広く知られているが、私は「日本三大仇討ち

説」が面白い。

一番の富士は「富士の夜討ち」。曽我兄弟が父の仇の工藤祐経を18年の歳月を経て

討った事か。時の征夷大将軍、源頼朝が狩りをしていた暴風雨の深夜、警備の五郎

丸は怪しい二人の人影を捕らえたが曽我兄弟と解かった時、「警護の役にあるなれ

ど我も人の子、人の親、二人に縄を掛けるより、ここが情けの掛けどころ」と兄弟を

導き、松明を指し頼朝の陣、北条氏、畠山氏の陣を教え、更に隣の一段低い竹薮に

幔幕を張っている工藤の陣を教え、「よいか!あれが工藤の陣屋じゃぞ!心して行

かれよ御兄弟」と兄弟の無念を晴らさせた判官びいきの心情が、兄弟の美談に彩り

を添え、日本人の喝采と共感を得たのであろう。

二番の鷹は赤穂浪士、浅野家の家紋が「鷹に羽の打ちちがい」だった事に所以

する。

問題は三番目の「なすび」である。これは荒木又右衛門の講談で言う三十数人

切りの事だが

「一富士と二鷹」の場合、自分より遥かに強大な相手に対し真っ向から我が身命

を賭しての仇討ちだったのに対し、「三なすび」のソレは公道に沿った仇討ちで

あって、ここで問題にしたいのが、何故、ソレが「なすび」なのか・・・卑下する表現

として「なすび」が用いられたのか。

私は、「字ずら、語呂」ではないかと考える。字ずら、語呂で「なすび」は損をした。

「なすび」は美味しいし日本人には欠かせない食材なのに・・・。また、同じように

損をしてるのが「へちま」であろうか。人は時に「何とかも!かんとかも!ヘチマも

有るか!!」と云う。

私も時々、云う。何で、そこに「へちま」が出なきゃーイカンのか!こんな時に引き

合いに出されるヘチマにすれば、たまったモンじゃーないし、いい面の皮である。

他方、「字ずら、語呂」で大儲けしたのは「菅原道真」「乃木希典」だとも思う。

以下次号  

 

06.2会報

細見谷林道について                       f.fukuhara

私が登山を始めた昭和40年頃、十方山をはじめ芸北の山々にはまだ豊かなブナの森

が残っていた。しかし、数年の間に次々と切り倒され禿山、笹の原となった。

奥三段峡も始めて行ったときは、巨木がうっそうと繁り昼なお暗い静かな渓谷でした。

翌年再び訪れたとき、様相は一変し明るい裸の谷に変貌していた。

狂気のごこく山々を裸にしていった衝撃は、今でもはっきりと記憶に残っています。

今またそのときのような愚行が繰り返されようとしている。

細見谷(十方山)林道計画がそれである。

西中国山地国定公園に指定されている細見谷には、全国的にも類を見ない貴重な渓

畔林が残されています。大田川源流の平坦な渓谷には氾濫原と湿原、イヌブナ等の

渓畔林があり動植物の貴重な生態をかたちづくっております。環境庁の植物群落調査

書でも屋久島と同じ選定基準に評価されていますが十分な保護策は取られておりま

せん。

今は幅員3から4mの未舗装の林道ですが、これを改修して立派な(?)舗装された

林道にしようという計画です。

すでに国立の恐羅漢スキー場のある二軒小屋地区までは大型バスも入れる高規格

の林道が完成しています。二軒小屋地区も過疎が進行し数軒の民宿がありますが、

このさきの水越峠からは人家はありません。細見谷の清流を利用してワサビ畑が作ら

れ吉和の特産物となっています。

ある試算によれば林道建設の費用は180億円にもなるといわれています。

計画では1日の利用車両数は190台とされています。この辺鄙な林道を誰が何のため

に利用するのでしょうか。とてもそのような利用があるとは思えません。

計画では夜間及び冬季は通行止めにして周辺の環境保護に努めるとのこと

ですが・・・・

この事業資金の三分の一は地元の広島県の負担となります。

完成後の維持管理は地元の市町村の負担となります。

国が120億円、広島県が60億円、これだけ負担しても必要な林道でしょうか。

自分が身銭を切ってこのような計画を実行するでしょうか

今のままの自然を残し、散策するほうが良いと思います。

車の排気ガスにより周辺の木々が立ち枯れした例はたくさん眼にしてきています。

計画は実現されねばならないという役人のメンツと地元土建業者の利益のための何

ものでもない。

自然保護団体や有識者の方がこの細見谷渓畔林一帯の厳重な保全を求めて「西中国

山地国定公園特別保護地区」にするよう署名運動を始めました。

 WWFジャパン(世界自然保護基金ジャパン)もこの運動の支援を決めております。

私たちも登山道整備等の自然保護活動を展開しており、他人事とは思えません。

貴重な自然、細見谷渓畔林を後世に残すべく活動すべきときだと思います。   以上


 

 

 

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